僕ももうすぐ65歳になろうとしています。
哲人ルソーは66歳で亡くなっている。
ルソーは、僕には
「常識とは非常識をも含まれる」ということのヒントを、
また、ルソーはマリー・アントワネットには、
「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」
という名言を語らせるヒントも与えている。
挙句の果てには、連休明けで勝手に疲れた我々の
怠惰な気持をも正当化してくれている。
「我々が押し付けられてきた概念は、
詐欺のような契約で私腹を肥やした者たちによる彼等のための概念に過ぎない。」
(「人間不平等起源論」ルソー)
「秩序というと聞こえは良いが、
不道徳な悪の取り決めにすぎない」
(「社会契約論」ルソー)
「正月明けの疲れは休んで取る」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/39964578.html
ルソーが亡くなる寸前まで執筆していたのが、
「孤独な散歩者の夢想」。
哲人ルソーが、最後の遺稿として著したのが、
なぜ「思考」ではなく「夢想」であったのか。
「夢想」は、思考や論理とは一線を画し、
内面世界、非常なる個人的、普遍性をもつ精神世界。
キリスト教からもフランス政府からも弾圧を受けた
ルソーが晩年に注目したのが、
「自分はいったい、誰なのだろうか」という命題。
「孤独な散歩者の夢想」は、ルソーの独白であり、
ルソーの心の底から湧き上がってきた言葉。
ルソーの真実であるとも思われなくもないのです。
なのでなるべく全文を引用したい。
「この世にたったひとり。もう兄妹も、隣人も、友人も世間との付き合いもなく、天涯孤独の身。私ほど人付き合いが好きで、人間を愛する者はいないというのに、そんな私が、満場一致で皆から追放されたのだ。」
(「孤独な散歩者の夢想」ジャン=ジャック・ルソー)
冒頭の全文です。
孤独を訴える異様な文章と、なにやら異常な事態。
実は、ルソーは著名な哲人、作家でありながら、
正直すぎる言葉、過激すぎる正義感、
純粋に真実、真相を探究するその生き方ゆえに、
キリスト教からもフランス政府からも迫害され、
追放され、50歳のころから
逃亡生活を余儀なくされていたのです。
が、少しの正義は存在していた。
現代の学者たちの評価では、ルソーは、
カント、ホッブス、ジョン・ロック、
挙句の果てには太宰、ゲーテにまで影響を
与えているらしい。
「欲望に身を任せて身を滅ぼす自由も存在するのなら、自分で考え、自分の理性で、
その欲望を制御する自由も存在する。」
(「実践理性批判」エマニュエル・カント)
「カントの自由」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/39974989.html
が、カントを御紹介したなら、ベンサムも御紹介せねば、
不公平、いや、僕の気が収まらぬだけなのかも知れません。
「いかなる法律も、自由の侵害である」
(「クレストメイシア」ジェレミー・ベンサム)
「ベンサムの快楽」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/39976992.html
当ブログに御登場いただいた、ルソー関係の人々を
挙げればきりがない。
なので、せめて、
あと二人だけはお許しいただきたいのです。
「狡賢い人間が作りだした契約社会は
醜悪なだけの社会となる」
(ジョン・ロック「統治二論」)
「支配される予感」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40626458.html
「人々は自由を手放す代わりに安全を手に入れた。
これが国家の始まりである。」
(トマス・ホッブズ「リヴァイアサン」)
「結果次第で命も危ない選挙」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/40638231.html
ある程度の身の安全を保障する代わりに、
税だ秩序だ、契約だ法律だと、
我々の自由を奪い、我々から搾取し続け、
醜悪なる男たちは、自分たちの至福を肥やす。
が、強姦、盗撮、〇敵虐待等々、相変わらず、
女性、弱者を苦しめる犯罪行為はなくならない。
それを「みなさんのため!」などと綺麗ごとを
並べて誤魔化す嘘つきよりは、
堂々とカツアゲするヤクザ者たちのほうが、
まだマシなのかも知れません。
「だが、そういう私は、皆から切り離され、すべての関係を断ち切られた私は、いったい何者なのだろう。
今、唯一私にできることは、自分が何者なのかを探究することだけだ。
だが、それには、まず、自分のおかれた状況について把握することが必要である。
気分のいいことではないが、致し方ない。
世間による迫害から自己の探求へと考えを深めていくには、どうしても現状把握が避けては通れないのだ。」
(「孤独な散歩者の夢想」ジャン=ジャック・ルソー)
現代社会においても、ある意味、
国家権力、お役所仕事、政治家、官僚、役場職員等々から、
ある意味、迫害を受け続けている我々にも通じる夢想。
我々も、世間による迫害から自己探求へと
考えを深めていくには、我々自身の、
個々の、現状把握は
どうしても避けられぬ道であるのかも知れません。