ひとくちに悪口と言っても、悪意に塗れたものもあれば
悪意はないが嘲笑するような批判のようなものもあるような気もする。
悪意がなくても、嘲笑的批判のような言動も避けたほうが良いらしい。
これは思い当らぬでもないような気もしないでもない。・・・気をつけよう・・・。
「人をだしにして笑ったり面白がったりしてはいけない。
悪口を言う人という評判がたってしまうと、みんなに嫌われるからだ。」
(バルタザール・グラシアン「賢人の知恵」)
そりゃそうでしょう。
が、気を付けなければならないのは、悪口のつもりはなくても、
単なる批評、見解のようなものでも、それが対象を嘲笑うかのようなものであれば、
対象も周囲も、それを不快と感じてしまうという事なのかも知れません。
私事、悪口は本人の前でだけ述べる。これは批判、議論のようなつもりではある。
が、対象となる当事者が不在の場合、嘲笑するような批判、批評は述べてしまう場合もある。
これが周囲をも不快にしているのだとしたら、僕は大いに反省すべきである。
自分自身が、誰かが誰かの、誰かが何かの対象に対して嘲笑的に批判、
批評を述べたからといって、それほど不快にも感じないので、
他者もそうであると思っていた。が、これは大きな間違いであるらしい。
ビジネスの世界では、鋭い指摘と、的を得た批評批判は、
それが論理的に的確で、嘲笑的になされればなされるほどに、功を奏する場合も多い。
だからといって、私生活まで、個人的な状況にまでビジネス的手法を持ち込んでは、
周囲を不愉快にしてしまうということも肝に銘じておかねばならぬのかも知れません。
思い当るだけに反省、ありがたい御言葉である。
知らず知らずのうちに、僕の無知ゆえに、
大切な人を不愉快にしてしまっていたのかも知れない。
「多勢に無勢で、相手は数を優位に、いつでもこちらを圧倒することができる。」
(バルタザール・グラシアン「賢人の知恵」)
が、こちらが圧倒的に文武両道優位に立っていれば、
たとえ相手が多勢であっても徒手空拳、ひとり立ち向かうことは可能であると信じていた。
それでもそれは勝ち負けの話であったのだ。
勝ち負けの問題ではなく、大切な人を不快にしないためには、大切な人との時間に、
余計な話、なにかを嘲笑的に批判批評論評などはしてはいけないらしい。
僕からすれば問いかけられたから、それに応えただけでもあるのだが、
その場合でも嘲笑的な批判批評論評などは避けたほうが良さそうではある。
おおいに反省。勉強になります。バルタザールさん、ありがとう。
「唾棄すべきゴシップ屋が立派な人と一緒にいることがあるが、
実際にはただ面白がられているだけなのだ。悪口をたたけば、
やがてそれが自分に返ってくるということを忘れないように。因果応報なのだ。」
(バルタザール・グラシアン「賢人の知恵」)
的を得た痛烈で論理的論評を嘲笑的に語って聞かせるとき、
周囲の笑いとか雰囲気を「ウケた」と思い、それを繰り返してきたような気もしないでもないけど、
それは間違いであったらしい。
自分のことは自分が一番よくわかっているという思い込みから、
僕自身はその人の不在時にその人の悪口などはけっして述べないとわかっているけど、
当の本人にしてみれば、今目の前で他者を嘲笑的に批判している人間が、
いつ自分のことも物笑いにしてくるのかは分かったものではない。
そのように思わせてしまう自分自身の言動を反省して改めると同時に、
これまで無意識とはいえ、無智ゆえに、
不快な思いをさせてしまっていたのかも知れない人々には、心から謝りたい。
「人の悪口を言ってはいけない」
いまさらながらの御言葉ではあるとも思われたけど、
自分では悪口のつもりもなく嘲笑的な批評も、
実は人を不快にしているとわかってみれば、
今からでも自分の人生を、おおいに修正すべきであったと気づかされる。
なのに僕ほどの愚かなオジさんになってしまえば、
「まっ、それも面白いかも」くらいの軽い気持ちでしか
受け止められないでいるのかも知れません。
バルタザールの述べる「因果応報」を
「横断歩道」と同じくらいの四字熟語として聞き流していてはいけないらしい。
「因果応報/「同性異性ひいき目祟り目」)