今日は〇〇ができた。
明日も〇〇ができればサイコー。
〇〇ができた、
〇〇ができればサイコー、という歓びと感謝が
至福につながるのかも知れないとも、
考えたり考えなかったりもするのです。
僕の場合の〇〇ができたの〇〇は、
散歩であったり読書であったり、
明日も〇〇ができればの〇〇も、
やっぱり散歩と読書であったり、
おいしい蜜豆や、
フルーツあん密を食べることであったり……。
お若いかた、持病もないかたたちからみれば、
小さな、ともいえないほどの
ちっぽけな話ではあるのでしょうけど、
とにかくそんなことでも幸せを感じられる、
今の自分にはあるていどの満足感を
覚えられるような気もしないでもないのです。
「自然は余計なことも無駄なこともしない。」
(アリストテレス「動物運動論」京都大学学術出版会)
人の生も死も自然の有様であるように思われます。
「自然とともに生きる」という思想は、
なにも山川草木とともにというような意味だけではなく、
その有様、生があれば死もあり、たまたまという概念も
含まれるのかとも考えています。
たまたま山川が氾濫し、たまたま草木が
生い茂ったり枯れ果ててしまったり…、
人間の幸不幸も生死も、そこにあるのは
たまたまという偶然と必然、
相対と絶対という概念だけで、
たまたまに理屈をつけたり、専門家と称する輩が、
ああでもないこうでもないなどと御託を
並べ立てるのは、はなはだ、いとおかしき
情景であるようにも思われなくもないような
気もしないでもないのです。
たまたまの定義と定理。(アリストス)
「技術の産物よりも自然本性の産物のほうが、目的と善美がいっそう多いものだ。」
(アリストテレス「動物運動論」京都大学学術出版会)
自然本性の産物である人類が
長年重用してきた地域言語のほうが、
技術の産物であるプログラミング言語などよりもはるかに、
多目的に楽ちんで深みもあり、
しかも善であり美でもある
ということなのかも知れません。
「ローマはこれを歓迎し、若者たちがギリシャ風の教養を授かり、哲人たちと交流するのを快く眺めていた。しかしカトーははじめから、弁論術が町に流入してくるのを嫌っていた。若者たちがその方面に名誉心を転じて、実践や戦いによる名声よりも、弁舌によって名声を得ようとするようになることを危惧していたのだ。」
(プルタルコス「マルクス・カトー」京都大学学術出版会)
賢人カトーは文武両道の人。
哲学者であり軍人であり、
戦場を駆け回る政治家であったようです。
彼は当時の流行でもあった哲学を
中途半端に学んだ若者が増えれば、
文武両道よりも口先だけの男が、
増えると嫌悪していたようです。
現在、世界の流れは
IT、AI信仰は、文武両道の男を減らして、
口先だけの男を増殖させる憂慮も
はらんでいるのかも知れません。
まあ、人類の進化などと謳っていても、
それが実は退化であったりする現象も、
稚拙で軟弱な男たちを蔓延させてしまう現象も、
現れてくる場合もあったりなかったりで
あるような気もしないでもないのです。
「文武両道にして裕福な者のなかには、文武両道なき裕福なだけの者を敵視する者が現れるのと同様の理屈で、これは人間にとって善き争いとなる。織物師は織物師を、歌人は歌人を、乞食が乞食を小突き回す。」
(ヘシオドス「仕事と日常」京都大学学術出版会)