コラム・インテリジェンス

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透き通るような心が…ほしい…。

愚翁の独り言

2024年5月20日に

肺ガン末期による

余命宣告を受け、早っ、

1年と数か月を

生き延びております。

 

さすがに最近では、

大好きであった読書も

一言一句読むこともできず、

 

日常生活も数名の人々のお力を借りて、

ようやく成り立っているような状況と

なってきたようにも感じております。

 

それでも

人間というものは呑気なもので、

日々、刻々と迫る、死の恐怖と

肉体的苦痛を体現しながらも、

 

大谷翔平と「ばけばけ」は

楽しませていただいております。

 

しかしながら、

「ばけばけ」の脚本の稚拙さと

史実の読み込み、確認、理解の

低さには閉口しているようにも

思われなくもないのかも知れません。

 

そしてなにより、

「ばけばけ」における主人公の

父親役「松野司之介」役を演じる

役者さんの演技力の低さにも

驚きを覚える始末でもあるようです。

 

天下のNHKともあろうものが、

脚本家が自ら個人的に親しい役者を

採用していることを黙認している

現状そのものにも

世の乱れを感じたりそうでもなかったりと

愚翁の心も戸惑ったりそうでもなかったりと、

なんとも落ち着かぬ日々を

体現しているような

気もしないでもないのです。

 

なにはともあれ師走、

師走の忙しい時期に

このような文章を

お目にかけることにこそ

違和を感じるべきでもあるのかもしれません。

 

言葉は言葉にあらず、

その魂の叫びにこそ

耳を傾け合い、

 

人間が人間同士として

敬虔なる人間関係を築き上げるのが

大切であるような気もしないでないのです。

 

人は人にあらず、

その志、心魂にこそ触れ合い、

 

人間が人間同士として、

敬虔にして和気合い々にして

過ごされるが肝要であるとも考えられるのです。

 

お久しぶりのご挨拶、

近況報告としての乱文乱筆

ご容赦願えれば幸甚であります。

 

拝読ありがとうございます。

我が国初の女性総理大臣の誕生。

 

乱暴な言い方をしてしまえば、

 

女性総理が誕生したのだから、

時代は女性天皇の誕生をも

待ち望んでいる

 

とでも解釈できそうな

そうでもなさそでありそな

 

なんだか混沌は深まるばかりとでも

なりそうな気配さえ感じるような

気もしないでもないようである

のかもしれません。

 

「ヨハネはイエスの生まれる前のことから福音書を始める。神の子は初めも終わりもない永遠だからだ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

初めと終わりという概念も、

永遠という概念も

ともに概念であるいじょう、

 

その概念同士を同じと

決めつけ結びつける論理にも

無理があるようです。

 

新約聖書が旧約聖書を

パクったという事実を

表沙汰にしたくない新約聖書の、

 

いやキリスト教そのものの苦労が、

見え隠れしているようにも

思われなくもないのです。

 

いまや死海文書の発見にみるように、

はじめに旧約聖書ありきであり、

 

コラム・インテリジェンス

「聖なる真理 1」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12544317579.html

 

その旧約聖書の思想が

ユダヤ教徒のものであったにしても

 

その旧約聖書をパクり

あらたな宗教のテキストとしても

活用しようしたキリスト教の苦労は、

並大抵でもなく、

 

そこに旧約聖書のモーセ五書いがいにも、

新約聖書として数々の

福音書等々を加えなければ、

 

とうてい世の人々に、

キリスト教がユダヤ教を凌駕し、

さらには新約聖書も旧約聖書を

凌駕していることなどを

 

認めてもらおうなどという

だいそれた謀反いや計画は

考えることさえ空恐ろしかった

と推察されるような気も

しないでもないとも

考えられるようにも思われなくも

ないのかも知れません。

 

「父なる神、子なる神イエス、聖書なる神という三位一体の考え方も提示した。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

そりゃそうだ。

旧約聖書をパクってしまったいじょう、

旧約聖書も福音書もモーセ五書も箴言も

 

三位一体どころか四位一体でも

五位一体でもなんでも受け入れ

提示してしまおうという決意

のようなものさえなければ、

 

とうてい旧約聖書をパクり、

新約聖書とごちゃまぜにしちゃう

などという大それた陰謀もとい

 

計画はなされなかったものとも

考えられなくもないような気も

しないでもないとも言い切れない

ようにも思われなくもないのです。

 

「またキリスト教徒が迫害を受けるだろうことも予告している。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

そりゃそうですよネ。

なんども言うようですが、

はじめに旧約ありきの新約では

どうみてもパクリ疑惑は

免れないであろうし、

 

またそのことへの反発として

キリスト教徒が

迫害を受けるであろうことなども

 

とうぜん予測できたであろう

物事であったようにも考えられます。

 

「その上、キリスト教徒は、紀元70年にエルサレムの神殿を破壊された後で民族再建を目指していたユダヤ教からも追放され、ローマ帝国からも迫害されていたという現実がある。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

自業自得とはいえ、

過酷な運命に操られし、

最も最悪な被害者はといえば、

 

なんの企みもせず、

なんの悪徳も備えていない

キリスト教なりユダヤ教なりの

信者たちその人たちであったことに

間違いもなかったようにも

考えられるような気も

しないでもないのです。

 

それにしても、

ユダヤ教といえばエレミア、箴言、

律法の書、創世記、出エジプト記等々、

知恵の塊といってもよい旧約聖書を有し、

 

ローマ帝国といえば、

ユリウス・カエサル(シーザー)、

パクス・ロマーナに代表される平和の

象徴的存在ともいえる国家体制。

 

思想的優秀である旧約聖書のユダヤ人、

アタリマエに初期のキリスト教徒は

すべてユダヤ人であったという事実

からしても、

 

そのユダヤ教からも追放され、

平和の象徴でもあるローマ帝国からも

迫害されたという初期キリスト教は、

 

今日、その栄華を誇るほどには、

優秀でも神聖でもなかったというように、

考えられなくもないのです。

 

日本という国は、どうやら

世界で最も姓名が多種多様

であるとされているようです。

 

小鳥遊たかなしさんであったり、

春夏冬あきないさんであったり、

 

斗環と書いてトワ君であったり、

音乃とかいてノノさんであったりと、

 

もうほとんど

言葉遊びの世界にとっぷりと

はまり込んでしまっているがような国。

 

平和だからこそ平和ゆえの

なんとも言い難い、なんとも

いいかげん、混沌、無秩序でも

あるようなそうでもないような気も

しないでもないのです。

 

「しかしこの時代のユダヤ名には種類が少なく、福音書の著者ヨハネが本当は誰であったのか、編集した共同体の総称だったのかなど、歴史的な確定はまだなされていない。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

ヨハネ

誰であったのかもわからぬ教団を

信仰するというのも

そうとう乱暴な話でもあるようです。

 

どこの誰かもわからぬ人の

著した「福音書」にもとづく

 

新約聖書なるテキストを

重要視するキリスト教は

信用し難いと申し上げる方が、

 

よっぽど正義に

かなっているとも考えられる

ような気もしないでもないのです。

 

それでもなんどもココでも

紹介させていただいているように、

 

「クムラン洞窟」でも

ご紹介したエッセネ派の

ユダヤ教のほうによっぽど

シンパシーを感じてしまっても

 

それほど叱られるような

ことだとは思えぬようにも

考えられなくもないのです。

 

コラム・インテリジェンス

「クムラン1」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12592691338.html

 

福音書をテキストに新約聖書を

正典とするキリスト教よりも

 

創世記、ヨブ記、エレミア書等々を

テキストとする旧約聖書のユダヤ教

 

どちらに重きをおくのか、

あるいは、

どちらにも重きも軽きもおかぬのか、

 

それこそ個人の自由であると

考えられます。

 

「イエスを神の子キリスト(メシア)であると信じさせるという一つの意図のもとに編集された形で、イエス亡き後のキリスト教会の指針を示した一種の説教文学でもある。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

ヨハネによる福音書。。。

マタイ、マルコ、ルカ

3つの福音書に続く4番目で、

最後に書かれた福音書。

 

「イエスは永遠の命を説くために遣わされた神の言葉(ロゴス)であること、キリストが愛したように愛さなければならないというのがそのテーマだ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

旧約聖書「箴言」にある言葉は

神の言葉(ロゴス)である。

 

箴言を信じまっとうする者は、

神に愛される。

 

「油断することなく、

あなたの心を守れ、

命の泉は、

これから流れ出るからである。

 (箴言4章23節)

 

コラム・インテリジェンス

「ソロモンの箴言 12」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12555834578.html

 

なによりも

自分自身の心を

守らなければならない。

 

と、ここで、

忘れてはならぬのが、

 

ローマ皇帝でありながら、

史上初、初めで最後の唯一無二

 

キリスト教徒の哲学者にして

ローマ皇帝にまで昇りつめた

マルクル・アウレリウスの言葉。

 

「つまらぬことに夢中にならぬこと。素直な話を許容すること。哲学に親しみむこと。ものを書くこと。床で直接寝ること、その他ギリシャ式鍛錬法にかなうものを好むことを学んだ。」

(「自省録」マルクス・アウレリウス) 

 

コラム・インテリジェンス

「アウレリウスの独り言 1」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12547342403.html

 

残念ながら、なのか、

ざまあみろ、なのか、

はっきりとした形容が

見つからないのがこの人、

ローマ皇帝マルクス・アウレリウス

 

僕は彼に対して全幅の信用と

畏敬と信仰に近い情動を

覚えてはいるのですが、

 

どうにも最後の、

「床で直接寝ることと、その他

ギリシャ式鍛錬法にかなうものを好む。」

という文言にだけは

従うことができませんでした。

 

何日か試しては見たけれど、

どうにもこうにも床に直接

寝るということだけは、

 

余命宣告を受けているがん患者にして

加齢もたっぷり盛られた年寄りには、

ほとんど拷問のような日々を

過ごしたものでした。

 

結局、僕は、どうやら、

 

新約聖書のキリスト教というよりは、

 

ソロモン王の、

マルクス・アウレリウス皇帝の、

「箴言」および「独り言」の

旧約聖書、ユダヤ教のほうが、

 

しっくりしそうな気も

しないいでもあったりなかったり、

でもあるようにも考えられるようにも

思われたり思られなかったりの、

 

そうでもなかったりの情動を

いったりきたり、あるいは、

行きもしないから帰りもしなかったりの

実情でもあるようです。