日本という国は、どうやら
世界で最も姓名が多種多様
であるとされているようです。
小鳥遊でたかなしさんであったり、
春夏冬であきないさんであったり、
斗環と書いてトワ君であったり、
音乃とかいてノノさんであったりと、
もうほとんど
言葉遊びの世界にとっぷりと
はまり込んでしまっているがような国。
平和だからこそ平和ゆえの
なんとも言い難い、なんとも
いいかげん、混沌、無秩序でも
あるようなそうでもないような気も
しないでもないのです。
「しかしこの時代のユダヤ名には種類が少なく、福音書の著者ヨハネが本当は誰であったのか、編集した共同体の総称だったのかなど、歴史的な確定はまだなされていない。」
(「キリスト教入門」講談社学術文庫)
ヨハネが
誰であったのかもわからぬ教団を
信仰するというのも
そうとう乱暴な話でもあるようです。
どこの誰かもわからぬ人の
著した「福音書」にもとづく
新約聖書なるテキストを
重要視するキリスト教は
信用し難いと申し上げる方が、
よっぽど正義に
かなっているとも考えられる
ような気もしないでもないのです。
それでもなんどもココでも
紹介させていただいているように、
「クムラン洞窟」でも
ご紹介したエッセネ派の
ユダヤ教のほうによっぽど
シンパシーを感じてしまっても
それほど叱られるような
ことだとは思えぬようにも
考えられなくもないのです。
コラム・インテリジェンス
「クムラン1」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12592691338.html
福音書をテキストに新約聖書を
正典とするキリスト教よりも
創世記、ヨブ記、エレミア書等々を
テキストとする旧約聖書のユダヤ教
どちらに重きをおくのか、
あるいは、
どちらにも重きも軽きもおかぬのか、
それこそ個人の自由であると
考えられます。
「イエスを神の子キリスト(メシア)であると信じさせるという一つの意図のもとに編集された形で、イエス亡き後のキリスト教会の指針を示した一種の説教文学でもある。」
(「キリスト教入門」講談社学術文庫)
ヨハネによる福音書。。。
マタイ、マルコ、ルカの
3つの福音書に続く4番目で、
最後に書かれた福音書。
「イエスは永遠の命を説くために遣わされた神の言葉(ロゴス)であること、キリストが愛したように愛さなければならないというのがそのテーマだ。」
(「キリスト教入門」講談社学術文庫)
旧約聖書「箴言」にある言葉は
神の言葉(ロゴス)である。
箴言を信じまっとうする者は、
神に愛される。
「油断することなく、
あなたの心を守れ、
命の泉は、
これから流れ出るからである。
(箴言4章23節)
コラム・インテリジェンス
「ソロモンの箴言 12」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12555834578.html
なによりも
自分自身の心を
守らなければならない。
と、ここで、
忘れてはならぬのが、
ローマ皇帝でありながら、
史上初、初めで最後の唯一無二
キリスト教徒の哲学者にして
ローマ皇帝にまで昇りつめた
マルクル・アウレリウスの言葉。
「つまらぬことに夢中にならぬこと。素直な話を許容すること。哲学に親しみむこと。ものを書くこと。床で直接寝ること、その他ギリシャ式鍛錬法にかなうものを好むことを学んだ。」
(「自省録」マルクス・アウレリウス)
コラム・インテリジェンス
「アウレリウスの独り言 1」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12547342403.html
残念ながら、なのか、
ざまあみろ、なのか、
はっきりとした形容が
見つからないのがこの人、
ローマ皇帝マルクス・アウレリウス
僕は彼に対して全幅の信用と
畏敬と信仰に近い情動を
覚えてはいるのですが、
どうにも最後の、
「床で直接寝ることと、その他
ギリシャ式鍛錬法にかなうものを好む。」
という文言にだけは
従うことができませんでした。
何日か試しては見たけれど、
どうにもこうにも床に直接
寝るということだけは、
余命宣告を受けているがん患者にして
加齢もたっぷり盛られた年寄りには、
ほとんど拷問のような日々を
過ごしたものでした。
結局、僕は、どうやら、
新約聖書のキリスト教というよりは、
ソロモン王の、
マルクス・アウレリウス皇帝の、
「箴言」および「独り言」の
旧約聖書、ユダヤ教のほうが、
しっくりしそうな気も
しないいでもあったりなかったり、
でもあるようにも考えられるようにも
思われたり思られなかったりの、
そうでもなかったりの情動を
いったりきたり、あるいは、
行きもしないから帰りもしなかったりの
実情でもあるようです。