ブログのサブタイトルにも書いてある
"愛"という響きは
多分、日本人にしか響かない"音"


この繊細な比喩も
やはり日本語特有のもの。


これは、
私個人の意見です。



言葉は
国によって
意味が
変わる



私は日本語が理解出来る人に向けて
このブログを書いています。



この事について、
ブログに記すということは 
その位の覚悟があってのことです。


年月が経過し読み返した時に
今とは違った考えを
手にしているもしれない。


それでもこうして
このブログに記す、という行為は
私自身への"愛"がそうさせるのです。


何かをする。
何かを伝える。


その行動の動機は何なのか?


それを考えて行動することは
とても難しく

・間違えたくなくて行動しない

・間違えたくなくて伝えない/言わない


後者の方がとても簡単です。



"神聖な愛とは何なのか?"


それをずっと探してきました。


見つけることが難しいのは

"愛"とは求めるものでもなく、

"愛となるもと"
"見極める力"

だからなのだと
今の私は思うのです。



"見極める"


これは
1人では達成できるものではない
だからこそ、

"同志"


が必要であり、
その輪が響き渡る時

誕生するもの


その副産物が

"神聖な愛"

なのではないかと
私は想うのです。


それが"成就"された暁には
距離など関係なく

また、
そこからぶれなければ
いつでも至福の懐のなかで
安らぐことの出来る
稀な奇跡


そう感じるほどに
たくさんの軌跡の上に降り立つ証。