あまり深い気持ちなく書いた昨日ブログでしたが

沢山の方に、是非続きをと言って頂きまして

ありがとうございます。

 

書く気持ちになっている今のうちに・・

前回の続きです・・

 

思いがけず、旅先の京都で命を落としかけた私は、その後

そのまま、3ヶ月にわたる療養を余儀なくされました。

ICUで、初めて目を覚ました時に最初に目に映ったのは、

母でした。

 

この時のことを、今も笑い話として周囲にも話す事が

多いのですが・・

 

うっかり死にかけた娘が初めて目を覚ました時に、

心配そうに覗き込んでいた母が、最初に口にした言葉。

 

「あ。気がついた?

 かおりちゃん。よかったよね〜顔

 あなたこんな事になっても死ななかったんだからニコニコ

 もうこれからは元気になるわ照れ

 なんでも好きな事をしてこれからは自由に生きなさい顔

 

と・・

 

それまでの母の口癖は

「普通に、生きてほしい。」でした。

(平穏に平凡にという意味で・・)

 

でもそれからというものは、

今も変わらず

 

「自信を持ってやりなさい!チアリーダー

あなたはツイているし、護られてるから。チアリーダー

絶対に上手く行くから!どんまいファイト

 

というのが母の口癖。

 

今のわたしがいるのは、この母親だった事も

大きな要因となっています。。

 

そして徐々に回復してゆく体と共に、

少しずつ仕事復帰への準備と意欲を養ってゆきました。

そしてそれからというもの、私の人生は、不思議と

出会う女性達おとめ座によって、サポートされてゆきました。

 

「急に倒れて、仕事のチャンスを失った」

という、私のそれまでのいきさつを知った

ある経営者の女性が、私を気の毒におもい、

ご自分がオフィスとして借りていたマンションの

一室が物置になっているから、そこを月2千円という

電気代だけで貸してくれると提案してくれました。

 

「本当にちゃんと仕事をしてゆこうと考えているなら

自宅から出て、小さくてもオフィスを持つ事が

信用だから」

 

と言って下さり、4畳ほどの一部屋を電気代だけで貸して

くれたのです。

 

それが私の最初のオフィスとなりました。

仕事がない毎日でも、必ずその小さなオフィスには

通う様にしていました。

そこに行っては色々とアイデアを絞り出していました。

 

一方、病み上がりの私は、気を許すとまだまだ

怠くて、家では横になる事も多かったのですが。。

 

そんな状態でも

どこかでカラーセミナーをやっている

と聞くと、ベッドから体を起こし、着替えて

その場に向かいました。

 

沢山の方々のセミナーを見聞きして、素晴らしい部分を

見習い本自分らしくやりたい部分は、原稿を起こしメモ

人前で話をする準備を続けました。

 

その時にはすでに、いまのカラフルKの立ち上げを

ずっと支えてくれた一人の女性おとめ座がいました。

 

色彩を1から学び直した際のクラスメイトで、

そのとき既にパーソナルカラーでボチボチ仕事を始めていた

私は、彼女から、

「どこにいけばパーソナルカラーは学べるのですか?」

と聞かれて。

 

「お金はいらないから、私が教えてあげる。

その代わり、手伝ってくれる?」

と声をかけて出会ったのでした。

 

そのころ、少しづつホテルや百貨店でのセミナーや

カラー診断のお仕事をはじめていたとはいえ、

まだまだ駆け出しだった私は、とても人を雇うゆとりなど

なく。

 

お金が入って来たら分け合って、そうしながら

彼女は、沢山の資料作りや、まだ病いを抱えたままの私を

5年間支えてくれました。

 

今思うと、あの頃、お金も仕事も、自立するには充分では

なかったけど、いつも2人で他愛ないことで笑い転げて、

ないなりに工夫して、一緒に泣いたり笑ったり、

双子ふたご座の様に楽しかった。

 

彼女もまた、カラフルKと共に、人生の生き甲斐を

見出していたようでした。

体調を崩しては、私の代理を果たす事になった彼女に、

ある日、謝った時に

彼女から言われた言葉は今も鮮明に私の心に残っています。

 

「私が出来る事なら、何でもやりますよ。

先生は、本当は体が元気だったら、なんでも一人で出来て

しまって。

糸の切れた凧の様に手の届かないところへ

行ってしまうのだと思う。

病気が先生をここに居させてくれているんだと

思うんです」

 

確かに。

 

私の体は、常に誰かから助けてもらっているのだ

という事を教えてくれていました。

 

そんな中、やはりひとりの女性おとめ座が、

自分の働いているレディスクリニックで、

カラーセミナーをやってみないか?

というお話をくれました。

 

院長先生は、妊婦さんでも前向きに様々な事を

楽しむ事が大事だと考えている方で、クリニックは

そのためのレクリエーションスペースも持っていると。

 

但し

それは院長先生にお会いして、OKが出た場合

であると言われました。

 

女性の集まる場所を探していた私には

とても嬉しいお話でした。

また

色に関する事であれば、どんな仕事もやりたかった私は

早速院長先生にお会いしたいとお願いしました。

 

そして、毎日多くのかたとお会いしてお忙しい院長に

お会いするために、私が急遽準備したのは

新しい名刺でした。

 

当時はまだ、白い名刺しかなった時代に、

優しい桜色の名刺を急いでつくり、それをお渡しして

ご挨拶をさせて頂きました。

院長先生は、私の予想を超えて、

まるで子供の様にその桜色の名刺に反応してくれました。

 

「これは何?どうしたの?どこで作れるの?

うちもこれにしたい!」  と・・

 

そして、すんなりと、出入りを許可して下さいました。

 

妊婦さん妊婦の集まる機会に、似合う色の大切さについて

レクチャーし、そこに参加していた人がもしも

カラー診断をしたいと思ったら、行なうという事に

なっていました。

 

意気揚々と、妊婦さんたちの集まっているクリニックの

レクリエーションルームに伺うと、

そこでは、ママ母親学級が行なわれていました。

 

間もなく出産を迎える妊婦さん達が大きなお腹を

かかえて、2時間にわたり赤ちゃんおしゃぶりのお風呂の入れ方や

衛生面の指導等を受けていましたほにゅうびん

 

そして、ようやく母親学級が終わった頃には

ぐったり疲れている様子がみてとれました。

 

重いお腹を抱えて立ち上がりかけた時に、

突然、私の紹介が行なわれました。

 

「まだ待って下さいねパー

本日はこのあと、色のお話があります」

 

とざっくり・・汗

 

その場の空気が

 

「色?なに?まだなにかやるの?

     出産となんの関係があるの?」

 

というムードで包まれ・・

 

あ〜汗

こういう雰囲気から、話はじめるという

事だったのですね。。

 

と気がついたのは、もう妊婦さんたちの前に立ったとき・・

 

聞く準備も、興味もなかった方々に

唐突に似合う色について話しだす。。。。

本当にこの経験が、私に力をつけてくれたのでした音譜

 

最初の数分間は

奇異な目で見られ、アクビをしている妊婦さんや

一緒に来たご主人と母子手帳をあけて話していたり。。

 

でもそのうち。

5分、10分と過ぎた時に。。

段々とみなさんが、こちらに向き直って下さって

身を乗り出して下さる方や、質問をして下さる方が

出て来る事が、もう何とも言えない喜びになってゆきました。

 

ここでの、この経験がその後、20代〜50代という幅広い

年齢層が1つのクラスになった専門学校でのクラスを担当した時にも、

楽に教える事が出来たという、私の基盤を作ってくれました。

 

聞くつもりのない方に、耳を傾けて頂くための話し方。

それを、この時に身に付けてさせて頂いたのです笑3

 

私がその状況を克服するために、家でしていた練習法は・・

 

テレビをつけて、テレビに向かってセミナーをする。

       ↑ こんな感じの相手に話す・・笑

 

もちろん、テレビ相手なので、最後まで全く私の話を

聞くどころか、延々関係ない話題をしています。

 

その中で、ずっと自分がぶれずに時間内に話せる練習を

実はしていたのです。。。

 

今では、原稿も作らず話すわたしをみている方々には、

考えられないと言われますが。。

 

最初から出来た訳ではないのです。。。

 

またまた長いですね・・

 

今日はこの辺で。。

 

ありがとうございました。

 

        Love音符Satya