それは、戦わぬこと | サト母さんセラピスト@音と色光とアートの世界

サト母さんセラピスト@音と色光とアートの世界

札幌近郊の野山を中心に活動中です。

自分の身の回りを含め、真我を問われる事象が起きている人がおおいかもしれません。


私も、その一人。一つの山でありまして。


娘を間に、娘の嫁ぎ先の事や婿のことなど…。
親子の関わりなど、濃いのでした。


今ここにきて、見ないでいたことが、触れずにいたことが一気に浮上してきている。


あまりに価値観が違う者同士、関わらざるを得ないこと。


その事象に対し、自分がどうあるか?
まさに、試されているのだなと痛感した。


娘が幸せであってくれれば…。


そう思うのも親心で、浮かない顔をして色々話をされると胸が痛み腹もたって。



そんな自分自身の理性と感情の狭間で悩み、朝目覚めると首が動かない…。

鞭打ち状態になっている。


寝違えたかな…と思ったけど、今の状況は理性と感情の狭間でどうにもならない首が回らぬ状況だった。

ふっと、自分と向き合う。


娘の辛い顔を思い出し、悲しくなった。
ついつい追い込んでいるなぁと。


個々のペースがある。

自分のポジティブをネガティブのなか気づきという学び途中の相手に

押し付けてしまいがちとか。


娘の戦う夢の話を聞いて、娘が今、色々な狭間にあって
それも私という存在にも苦しんでいる状態を察し…。


それは、本当は自分はどうしたいのか?という気持ちを二者択一において決めかね苦しみ
エネルギー状態が低迷している状態であること。


善悪、正義論において、答えが出せぬ状態。


本当は、大地に身をゆだね、あるがままの心を表現するがいいのに…と。
答えなんて、そこにしか存在しないのだ。


本当のコミュニケーション。


これは、私にも鏡として見せられたと思った。

娘を鏡として見たとき、自分が狭間にいたら娘も狭間にて苦しむと気づいた。


ならば、自分はどうしたいのか?と。


親心を押し付けていても意味がないのだ。

自分がどうしたいのか?相手をじゃない。自分ができる世界では?だ。


それは、娘にだけではなく、相手の人たちに伝えたいことがあるのだ。

それを伝えたら娘は?と、ふたをするのをやめようと。

気遣いというのは、目隠しだ。

自分が、評価の高い人間になるには?に、なりがちなのだ。



相手を責めるのではなく、私が真に伝えたいことは何か?をシンプルに伝えることだ。

一人娘の親としての心。わが子の幸せを望んでいる心。

相手がどう捉えようと、理解することを期待することもいらない。

私はこう思い、こう受け止めている。
あなたは、どう思い、どう受け止めていますか?

それだけだ。



娘にも同じことが言えるだろう。
相手が理解しているかどうかの確認はいいから、
今自分が心に溜めている寂しさは何か?伝えたいことはなにか?を
ただ、ストレートに伝えることだろう。

そこから、色々なことが始まるんだと思った。


葛藤は、自分の心と戦うこと。

自分の心と戦うと、周りの人とも戦ってしまう。

自分の心を自分を受け入れると葛藤はなくなる。
人も受け入れられるようになり、戦わなくなるものだと。


私の首の痛みは、相手にゆだねることも教えている。
その結果において、私の感じたことを素直に伝えればいいんだって。


まだまだ周りだけじゃなく、自分自身すらコントロールしようとする癖がありまくりだなぁ…。

まだ自分を守ろうと、戦いを捨てられぬ自分に気づかせてくれたのだと思った。



乗り越えられるから、事象がおきる。
気づいて乗り越えることで、軽やかになれるのだ。
守らなくてもいいし、戦わなくなれるのだ。


それこそが、解放なのだ。


ありがとう…。

厳しい存在よ…。



世の辛苦は、学びと自由への階段だ。


親としても、わが子に辛苦の階段を見守れるとしたら

わが子を信じることが根底となる。


その信頼があってこそ、人は成長するのだろう。


まだまだ、親としても半人前だと気づかされる。



わが守護する存在の、私への信頼を感じ。

親としての自分の有り方を無言で教えてくれている。


私も、彼らのような親になりたいな…。


戦わずしてこそ、自由がある。





とりま、頑張りますわ。