本日はサラダ記念日である。

文芸に秀でた方々をひっそり私淑するひとりとして、そっと襟を正す。

サラダ記念日とは実にすごい言葉である。

誰にでもできることではない。

まず七文字である。

音もいい。

字面もいい。ぱっと分かり、カタカナと漢字のバランスもいい。

言いきる潔さも爽やかだ。

みずみずしく日常的なサラダという言葉を、記念日と合わせるということにおける、些事の最大化みたいな微笑ましさと緊張感の同居もある。

とにかくすてきだ。

「文章というのは誰にでも書ける」

そんな意味の文章を目にすると、とても居心地の悪い椅子に座っているような落ち着かなさを感じる。

確かに文章というのは誰にでも書ける。

自分の意をさらさらと書き出すときの気持ちよさや、やや筆が走りすぎてしまうときの陶然とした興奮など、誰でも味わうべきすばらしい体験だろう。

でも同じように、

「ヴァイオリンは誰にでも弾ける」

「包丁は誰にでも使える」

となると、いやちょっとまてよはたしてどうだろうか、と思う。

最近とても贅沢な遊びをやっている。

レイモンド・チャンドラー。

未読である。

しかし私は二冊持っている。

同じ作品だ。

清水俊二訳の『長いお別れ』(読まずに家にあった)と、我らが村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』(亡き母のハードカバーがイロドリにあった)である。

これらを、何ページかずつ交互に読み進めていくということを、偶然始めている。

実に面白い。

おんなじだけれど、ぜんぜん違う。

私は小説というもののいろいろな側面が好きだけれど、

ことに「文体」というものが気になってたまらない。

文体に惚れてしまったらもう終わりである。

どんなことが書いていても、そのリズムや改行やら、体言どめやてにをはやらを、

「ここは「わりと」ではなく「わりに」だなあ」

「「少し」ではなく「少しく」だなあ」

「「アイスクリームのように冷たく」ではなく「舌にのせたアイスクリームが溶けないほど」だなあ」

とか、時間をかけて咀嚼しながら堪能するのがたまらない。

ヴァイオリニストが音をよくするために、どんな生活をしているだろうか。

作家は文体を獲得するために、どんな生活をしているだろうか。

その答えになるような、ロング・グッドバイの訳者あとがきに、亡き母がふせんを貼っていた。