先日、韓国映画『マルモイ』を観ました。

 

日本統治時代、母国語であるハングルを守るために、命がけで辞書を作った人たちの物語です。

 

観終わったあと、色々なことを考えてしまいました。

 

私は日本人です。

だからこそ、歴史を学べば学ぶほど胸が痛みます。

 

もし私が突然、

 

「今日から日本語を使ってはいけません」

 

「名前を変えなさい」

 

「子どもにも日本語を教えてはいけません」

 

と言われたらどうだろう。

そう考えただけで苦しくなりました。

 

 

言葉は、ただの会話の道具ではないと思うんです。

家族との思い出があり、
文化があり、
があり、
自分自身があります。

だから母国語を奪うということは、その人たちの尊厳やアイデンティティまで奪うことなのではないか。

そんなことを考えました。

 

 

私は、歴史を学ぶたびに思います。

 

人間は、なぜここまで残酷になれるのだろう。

なぜ相手を自分と同じ人間だと思えなくなってしまうのだろう。

 

戦争や植民地支配の歴史を知るたびに、その苦しみの大きさに言葉を失います。

 

そして悲しいのは、それが遠い昔の話ではないことです。

 

戦後80年以上が経った今でも、差別や偏見はなくなっていません。

 

相手を見下したり、傷つけたりする言葉は、形を変えながら今も存在しています。

だからこそ、歴史を学ぶ意味があるのだと思います。

 

自分の国を嫌いになるためではなく、

同じ過ちを繰り返さないために。

相手の痛みを想像できる人であるために。

 

『マルモイ』を観ながら、辞書を作った人たちが守ろうとしていたのは、単なる言葉ではなく、人間としての誇りだったのだと感じました。

その思いを、私は忘れたくありません。

 

皆さんは『言葉を奪われる』ことについて考えたことがありますか?