私たちの語ることって

 

そこに語られたことが

全てあるか

 

それは

紐をほどくように

 

つむぐようにしていかないと

 

わからない。

 

いつもありがとうございます。

らいふすと~り~研究所

こころ相談者/コディ(ひろゆき)です。

 

 

「私はお馬鹿さんなのよ」

といえば、

 

あなたは

この言葉だけで

どんな解釈を

与えてしまいますか?

 

 

例えば、

「おバカさんなの」⇒「バカを相手にするのは・・・・・」

このような連想ゲームのように、

勝手に自分の中での連想によってイメージ

(パッケージ化)してしまいます。

 

 

例えば、

ナラティヴモデル的な発想をお借りすれば、

 

このお馬鹿さんについて語ってもらう(笑)。

お馬鹿さんを外在化して擬人化させることで、

 

あなたがおバカさんであるというとらえ方について

改めて問う

 

 

例えば、

 

本当におバカさんなんですか?と尋ねることで、

お馬鹿さんという認識を少しずつ崩す。

 

どれもが

その考え方が間違っているというよりも

もう一度改めて深く考えてみよう・見ませんかと

 

ほのめかす。

 

もし、

日本的な以心伝心が

こころの援助・支援で

すべての人の心を癒しているならば、

 

社会的なスティグマやラベリングって

専門用語はあまり言われたりしないはず。

注目されたりしないはず。

 

そして

なぜ私たちは、

例えば、

内のものである家族にも

語ることができなかったりするんだろうか

 

自分の本心を語ることをしたりしなかったりするんだろうか

 

語らないのではなくって

語れないはず。

 

なぜ、

語れないんだろうか

 

人の社会には必ず力関係がそこにはある。

 

 

 

心の悩みや問題も

精神疾患や心の悩みを患う人たちは、

こころの状況がある程度維持できて

通常のひとたちより

少し弱い立場に立たされる。

 

そうじゃなくとも

 

お父さんとお母さんと子供たちの関係で考えれば、

子供たちは立場上弱い。

 

お父さんとお母さんでは・・・・・・

その家庭環境によって

力関係があって

 

このような日常的な体験を

私たちは日々体験して経験しているので、

 

なかなか本心など話すことはしない。

話せば何が起こるのかわからないし、

この世の中の、

オレオレ詐欺のようなことや

詐欺や

だますようなことが

普通に日常的に身近に存在しているから、

 

思ったことを表現することが難しい。

 

 

弱っている立場の人たちはなおさらのこと。

 

強がって見せてみたりしても

どこかで寂しさを表現していたり、

 

攻撃的な特性を持って

自分を守るために・・・・・・

 

静かなひとだって・・・・

静かおとなしいということを通じて

事故を守っていたり・・・・・・

 

 

言葉の前に

私たちが信頼に値する人物であるのかを

相手に示して

相手が認めてくれるのか

開いてくれるのか

 

 

あなたはたぶん簡単に

すぐに思った状況を自分に与えようとする。

そこで

あなたは何も疑うことはしないだろ。

 

自分が思って感じたことだから。

それも間違いのないことだけれども・・・・

 

私たちはついつい

自分たちが理解していることについて

理解したことが正しいことを証明しようと

そればかりを探して見つけ出してしまう。

 

 

 

さて

先ほどのお馬鹿ちゃんも

何かのキャラのようにしてしまうと、

 

お前は馬鹿という意味よりも

少しだけ

ゆるキャラのようにおんわかする。

 

 

この温和化したお馬鹿ちゃんにも

実はよいところもあって

 

こんな風にして

私たちのだまされた思考に

少しふ~と隙間をあたえることだってできる。

 

 

多くの人の認識は、

バカというのは、片方の意味合いだけをとらえていたりする

 

 

 

話は長くなるのでこの辺で。

らいふ~すと^り^~研究所