「ナラティヴとは何か」
「生きた言葉」の対話性(野村直樹)を読んでいる。
野村直樹先生は名古屋大学の教授(文化人類学者)
この先生と初めて出会ったのがたしか?大阪?京都だったか?ベイトソンセミナーで後々知るのだけれども・・・
大学でグレコリーベイトソンから指導を受けた経験がある人だった。
グレコリーベイトソンといえばダブルバインドが有名なのかなぁ?
私の場合は笑・・・
ベイトソンチームがエリクソンの臨床について調査したという関係から・・・ベイトソンを知った笑。
ベイトソンが導き出した理論がのちのブリーフセラピー
MRIや家族療法やブリーフ系に影響していく。
ココでも紹介している
マインド(精神)とはベイトソンは紐解く理論的考え方。
電子回路のような感じの相互に作用している全体的なプロセス。なので精神とはどこかにあるものではない。
生きた言葉の対話性を読みながら・・・思うのはコミュニケーションも生きたものだということ。
前回の話ではないけれども・・・
科学や理論の見方ってどこか呼吸も息もせず
標本や本のようなもので・・・つねにうつろいかわっていることについては含まれていない。
ブドウでいえば約束組み手のように決められた法則だけが
そこにあって実際にはあまり機能しない。
読みながら考えているのは・・
言葉には対象を示す働きと共に誰かが前に使ったことばでもあったりする。それは足跡や手あかがついているかのような、これらについてロシアの言語学者バブチンは
言葉の内的対話性と呼んだと野村は言う。
そしてどんな言葉も表現もそこには使用者たちの声が息づき響き合っていると野村は言う。
そしてその声は理解しやすいに光で照らしたり、アクセントを変えてわかりにくくベールに包んだりもし
言葉はそれら他者の声たちと互いに共鳴したり、反発したったりして、対話的関係の中で通過していくとバブチンは云うと野村は云う。
ここまでを読んできて
私が少しだけ思ったのは・・・
他者の声たちと互いに共鳴したり、反発しあったり・・・
それらのことばがもつありかたについて考えていた。
確かに言葉は道具のように
何かを共通してわかるように
対象を指示して教えてくれる働きがある。
そしてそれらの言葉はだれもがいっぱい使っているために・・・そこに足跡やてあかがついているという発想は
私たちの中に一般的には消えている。
けれども言われてみれば・・・と思ってしまう。
同じ言葉を使っても表現の伝わり方が異なることも・・・
伝わる影響も違うことを私たちは知っている
共鳴って言葉が私の中で留まる。
そして・私が共鳴から連想したのは・共振だった。
言葉には「他者の言語」という
ときには見通しが困難な媒体がひそかに介在しているため
言葉とその対象、言葉とその語り手、の間の関係は
どれも一つ同じものはないと野村は云う。
「他者の言葉」という思わぬ伏兵と出会った時、
言葉は生き物のような多様さをもってその時その場で
独自の色彩を放つ。
言葉が「他者の言葉」と相互作用しあうさまは、
人の出会いに似てて、その後の予断をゆるさない。
言葉が意向を持った他者の言葉と相互作用する。
言葉には意図が棲みついていると野村は云う。
これを読んだ私が思ったのは‥笑
単純に
言葉を発話する人の声とその言葉を使う人の言葉は
他の言葉と出会うことでわたしたちにはわかりえなにないんかを表現したり何かを生み出したり‥何かしらの声を与えてくれるような不思議な能力_?力が備わっているということ>??
これまでの言葉として聞くのではなく・・
生きた言葉して聞くのはすごく違うように感じてきた笑。
いまはこの辺にしてまた
あらたに考えてみたい。