「修学旅行の夜 親からの苦情で先生たちにアルコール禁止令」
http://news.nicovideo.jp/watch/nw102894
私の父親は高校の教員だった。
その父親は元々それほど酒が好きなタイプではないのだが、
平日の飲酒は9時以降になってからというのが習慣だったのを覚えている。
北海道の田舎の高校、生徒は周辺の町村から公共交通機関で通ってくる者も多い。
冬期間などは吹雪などで交通マヒを起こった場合には何らかの対処が必要となるため、
車を出せるように呑まないことにしていたのだ。
確かに教員という仕事は男性の育児休暇などが早いうちから認められていたりした。
労働者としては優遇されていた面はあったように思われる。
だが、私は最近の教員への風当たりの強さには強い危惧を持っている。
不況時代のスケープゴートとして、身近ターゲットにされているように思われるのだ。
教員と言う仕事、特に小中高の先生たちの仕事は『聖人労働』とも言うべきものになってしまっている。
『感情労働』と言う言葉がある。
肉体労働や頭脳労働と並ぶ労働のあり方の一つとして、
「感情の抑制や鈍麻、緊張、忍耐などが絶対的に必要」な仕事のことを言う。
どんな仕事にでも、多少なりとも他人と接することがあればこの側面はある。
特に接客など、直接、客にあたる相手と接する場合には感情労働の面が強くなる。
代表格としてよく出されるのは、看護師やホステスで、女性がメインの職場で多い。
「白衣の天使」として、笑顔と優しさが強制される看護師や、
どんな客にでも好意を持っているように振る舞う必要のあるホステスは、
一方で、多くのクレームやセクシャルハラスメントなどに見舞われる場合もある。
「スマイル0円」などと揶揄されていたファーストフード店の店員にも同じような側面はあるだろう。
教員の感情労働はこれらとは違う点がある。
看護師もホステスも、他の各種の接客業も、仕事が終わったあとには自由がある。
(個別に見ていけば、そうそう単純に自由とか言ってられないのだが)
仕事が終わり、患者や客がいないところでは、憂さ晴らしもできる。
感情労働の疲労や傷は休んだだけではなかなか癒されず、
特にクレームを受けた場合などはそれを貯めこんでしまう場合はあるが、
少なくとも、職場から遠ざかれば『仕事は終わり』である。
ところが教員の場合はそういかない場合があるのだ。
小中高の教員の場合、プライベートと仕事の時間の境目が曖昧である。
勤務時間という時間が明確に定義されていないようなところがあるのだ。
例えば残業手当というのは存在しない。(はず。少なくとも父が教員だった頃は)
勤務時間は一応決まっているが、例えば休日に部活動の顧問として、
大会に引率したり、練習に立ちあったりしてもそれは就業時間に含まれない。
定期考査などの試験後の採点作業を夜遅くまでかかって行ったとしても、
それも就業していたことにならない。
逆に、同じ事をしていても、勤務時間内にすれば仕事ということになるわけだ。
若手の何年目か、そろそろ教員の仕事にも慣れてきた先生には、
担任を受け持ったり、部活の顧問、進路指導や生活指導といった、
様々な仕事が回され、勤務時間内には決して収まらない量の仕事が任される。
逆にある程度力のあるベテランの教員の中にはそうした仕事を避けて、
ずいぶんとのんびりした勤務体系になっている者も確かにいる。
そうした、曖昧な就業規則の中で、
『生徒の事を思って身を粉にして働く聖人のような先生』
であることが期待されている。いや、いたと言うべきか…。
以前私は父親の仕事である教員を見る世間の目をして、
『金八先生症候群』と呼んでいたことがある。
学校の教員とは『金八先生』のように人情味があり、
熱血で、心優しく、生徒のために身を粉にして働く人であることを期待していたと思われたからだ。
だが、今は次のステージに病状が進んでいるように思う。
教員は聖人で有るべきだが、誰もが聖人になれるわけでもなく、
また、完璧な人間などいないから粗探しをすればいくらでもクレームをつけられる。
『あるべき教員の姿』が金八先生症候群によって極めてハードルの高いものになったところで、
そこに達しない多くの(基本的にはすべての)教員を安心して避難できるようになり、
経済の停滞などからのマイナスの感情も相まって、
『安心して扱き下ろせる格好のスケープゴート』
になっているように思われるのだ。
ある意味ではいじめの構図そのものである。
私自身は専門学校の非常勤講師をしている程度で、
教員としてはずいぶんと事情が違う。
直接、教え子の親御さん接することもない。
だが、そうした親に育てられ、高校を卒業した学生たちに、
歳相応ではない『スレ切った幼さ』を感じることがある。
感情のアンバランスさと言うのか、
『大人に甘えつつあざ笑う』
というような態度が散見されることがある。
これは教え子に限らず、平成生まれの今のハタチ前後には共通して見られる気がするものだ。
さて、最初に載せたニュース記事からはずいぶん離れた話になってしまった。
学校の先生が、修学旅行中の夜間に軽く酒を飲んでいたりすることは私は知っていた。
なにせ多くの田舎の教員は、教員住宅と呼ばれる官舎に住んでいる。
私の周りの大人といえば高校の先生がほとんどだった。
高校入試の際、面接官がそれこそ子供の頃から知っている『近所のおじさん』で、
思わずお互いに吹き出してしまいそうになったことをよく覚えている。
教員だって聖人でもなんでもない。
家では一人の人間。酒も飲むしパチンコ屋や麻雀が趣味だったりもする。
そんな教員、実は修学旅行中の夜間は法的には『勤務時間』ではない。
修学旅行にいくからと言って手当がでるわけではないのだ。
実際には修学旅行の引率期間も普段と同じ日当しかでていない。
準備のために持ち出しが発生するぐらいだ。
酒も飲まず、できるなら不眠不休で夜間も生徒たちのために寝ずの番をするというのなら、
確かにその先生は聖人かもしれないが、そんな先生は生徒たちにとっては迷惑だろう。
先生が酒を飲み始めたり爆睡してくれるから、生徒たちはこっそりといろいろな工夫をして、
大きな声では言えない青春の思い出作ることができる。
私は聖人には『いい子』は育てられても『自立した大人』は育てられないと思っている。
大人にもダメな部分は当たり前にあり、そのダメな大人の一人となって生きて行く術を、
ダメな大人たちから学ぶ必要があるのだ。
聖人ではダメなところを見せてあげられないから、
『いい子』は育てられても『大人』を育てることはできない。
それでも、先生には聖人であってほしいですか?
書き捨て御免!
http://news.nicovideo.jp/watch/nw102894
私の父親は高校の教員だった。
その父親は元々それほど酒が好きなタイプではないのだが、
平日の飲酒は9時以降になってからというのが習慣だったのを覚えている。
北海道の田舎の高校、生徒は周辺の町村から公共交通機関で通ってくる者も多い。
冬期間などは吹雪などで交通マヒを起こった場合には何らかの対処が必要となるため、
車を出せるように呑まないことにしていたのだ。
確かに教員という仕事は男性の育児休暇などが早いうちから認められていたりした。
労働者としては優遇されていた面はあったように思われる。
だが、私は最近の教員への風当たりの強さには強い危惧を持っている。
不況時代のスケープゴートとして、身近ターゲットにされているように思われるのだ。
教員と言う仕事、特に小中高の先生たちの仕事は『聖人労働』とも言うべきものになってしまっている。
『感情労働』と言う言葉がある。
肉体労働や頭脳労働と並ぶ労働のあり方の一つとして、
「感情の抑制や鈍麻、緊張、忍耐などが絶対的に必要」な仕事のことを言う。
どんな仕事にでも、多少なりとも他人と接することがあればこの側面はある。
特に接客など、直接、客にあたる相手と接する場合には感情労働の面が強くなる。
代表格としてよく出されるのは、看護師やホステスで、女性がメインの職場で多い。
「白衣の天使」として、笑顔と優しさが強制される看護師や、
どんな客にでも好意を持っているように振る舞う必要のあるホステスは、
一方で、多くのクレームやセクシャルハラスメントなどに見舞われる場合もある。
「スマイル0円」などと揶揄されていたファーストフード店の店員にも同じような側面はあるだろう。
教員の感情労働はこれらとは違う点がある。
看護師もホステスも、他の各種の接客業も、仕事が終わったあとには自由がある。
(個別に見ていけば、そうそう単純に自由とか言ってられないのだが)
仕事が終わり、患者や客がいないところでは、憂さ晴らしもできる。
感情労働の疲労や傷は休んだだけではなかなか癒されず、
特にクレームを受けた場合などはそれを貯めこんでしまう場合はあるが、
少なくとも、職場から遠ざかれば『仕事は終わり』である。
ところが教員の場合はそういかない場合があるのだ。
小中高の教員の場合、プライベートと仕事の時間の境目が曖昧である。
勤務時間という時間が明確に定義されていないようなところがあるのだ。
例えば残業手当というのは存在しない。(はず。少なくとも父が教員だった頃は)
勤務時間は一応決まっているが、例えば休日に部活動の顧問として、
大会に引率したり、練習に立ちあったりしてもそれは就業時間に含まれない。
定期考査などの試験後の採点作業を夜遅くまでかかって行ったとしても、
それも就業していたことにならない。
逆に、同じ事をしていても、勤務時間内にすれば仕事ということになるわけだ。
若手の何年目か、そろそろ教員の仕事にも慣れてきた先生には、
担任を受け持ったり、部活の顧問、進路指導や生活指導といった、
様々な仕事が回され、勤務時間内には決して収まらない量の仕事が任される。
逆にある程度力のあるベテランの教員の中にはそうした仕事を避けて、
ずいぶんとのんびりした勤務体系になっている者も確かにいる。
そうした、曖昧な就業規則の中で、
『生徒の事を思って身を粉にして働く聖人のような先生』
であることが期待されている。いや、いたと言うべきか…。
以前私は父親の仕事である教員を見る世間の目をして、
『金八先生症候群』と呼んでいたことがある。
学校の教員とは『金八先生』のように人情味があり、
熱血で、心優しく、生徒のために身を粉にして働く人であることを期待していたと思われたからだ。
だが、今は次のステージに病状が進んでいるように思う。
教員は聖人で有るべきだが、誰もが聖人になれるわけでもなく、
また、完璧な人間などいないから粗探しをすればいくらでもクレームをつけられる。
『あるべき教員の姿』が金八先生症候群によって極めてハードルの高いものになったところで、
そこに達しない多くの(基本的にはすべての)教員を安心して避難できるようになり、
経済の停滞などからのマイナスの感情も相まって、
『安心して扱き下ろせる格好のスケープゴート』
になっているように思われるのだ。
ある意味ではいじめの構図そのものである。
私自身は専門学校の非常勤講師をしている程度で、
教員としてはずいぶんと事情が違う。
直接、教え子の親御さん接することもない。
だが、そうした親に育てられ、高校を卒業した学生たちに、
歳相応ではない『スレ切った幼さ』を感じることがある。
感情のアンバランスさと言うのか、
『大人に甘えつつあざ笑う』
というような態度が散見されることがある。
これは教え子に限らず、平成生まれの今のハタチ前後には共通して見られる気がするものだ。
さて、最初に載せたニュース記事からはずいぶん離れた話になってしまった。
学校の先生が、修学旅行中の夜間に軽く酒を飲んでいたりすることは私は知っていた。
なにせ多くの田舎の教員は、教員住宅と呼ばれる官舎に住んでいる。
私の周りの大人といえば高校の先生がほとんどだった。
高校入試の際、面接官がそれこそ子供の頃から知っている『近所のおじさん』で、
思わずお互いに吹き出してしまいそうになったことをよく覚えている。
教員だって聖人でもなんでもない。
家では一人の人間。酒も飲むしパチンコ屋や麻雀が趣味だったりもする。
そんな教員、実は修学旅行中の夜間は法的には『勤務時間』ではない。
修学旅行にいくからと言って手当がでるわけではないのだ。
実際には修学旅行の引率期間も普段と同じ日当しかでていない。
準備のために持ち出しが発生するぐらいだ。
酒も飲まず、できるなら不眠不休で夜間も生徒たちのために寝ずの番をするというのなら、
確かにその先生は聖人かもしれないが、そんな先生は生徒たちにとっては迷惑だろう。
先生が酒を飲み始めたり爆睡してくれるから、生徒たちはこっそりといろいろな工夫をして、
大きな声では言えない青春の思い出作ることができる。
私は聖人には『いい子』は育てられても『自立した大人』は育てられないと思っている。
大人にもダメな部分は当たり前にあり、そのダメな大人の一人となって生きて行く術を、
ダメな大人たちから学ぶ必要があるのだ。
聖人ではダメなところを見せてあげられないから、
『いい子』は育てられても『大人』を育てることはできない。
それでも、先生には聖人であってほしいですか?
書き捨て御免!