ふと、思い出した今の商売を始めるときの話。
私が個人事業主としてスタートしたのは2007年の4月。
持ち帰りの仕事を中心にして、いわゆる現場常駐からSOHOの形態に移行したのが、
同年10月のことだった。
元々は1,2年は現場常駐をして、お金をためつつ人脈を広げてから、
SOHOになろうと考えていた。
当時大変景気の良かった名古屋への遠征なんかも考えていた。
それがわずか半年で、常駐をやめたのにはわけがある。
が、その前に、そもそも独立にいたった経緯から書くことにする。
私の職歴はろくなものではない。
2002年に大学を卒業、道内の中堅ソフトハウスに入社。
携帯電話の品質管理部門に配属されたが、
わずか9ヶ月で退社。
2003年は大学の研究生をしながら、アルバイトで食いつないだ。
2004年からは小規模ではあるものの老舗のホスティングサービスを運用する会社に入社。
Web開発の技術については、研究生のころから手をつけ始めていたが、
現在も飯の種になっているWeb系の技術はこのころ身につけたものだ。
だが、2005年5月にその会社も退社。14ヶ月ほどだった。
そのとき考えたことは、『自分は会社を辞める人間なんだ』ということ。
20代前半で2回も会社を辞めたともなれば、経歴としては傷だらけだ。
ならば、自分は会社を辞めるであろうことを前提に、
次のキャリアを考えるべきという結論に至る。
選んだのは、いうなれば業界最下層。
技術者をばら売りで供給する半派遣のソフトウェア会社だった。
2005年7月に入社。
入社に対して、一つだけ社長にお願いをした記憶がある。
『できるだけ、短期間にいろいろな現場に行かせてほしい』
いろいろな理由もあって、二つの会社を辞めたけれども、
IT業界にはまだまだ自分の知らないことがあるはず。
だから、世間知らずを脱却するために、いろいろな経験がしたかった。
結果、社長は私のリクエストに答えてくれた。
私も、会社の中では若手ではあったけれども、
現場だけでなく、社内的な活動についても積極に取り組んだ。
しかし、それが裏目にでることもある。
その会社の社長は何事も社員との合議で物事を決めるタイプで、
私のようなものを言う社員にはいろいろなことを相談していた。
同じように積極的に社長に意見を述べる年の近い上司と対立し、
他にも些細な問題が持ち上がる中で、渦中の人になってしまう。
結果、会社を辞めざるを得なくなる。
その会社には私の大学の同期だった男がいた。
退社の決意を決めるにいたったのは彼の一言だった。
会社が悪いほうに向かうと確信していた私は、
玉砕覚悟で最後まで抵抗しようと考えていたが、
彼はこう言ったのである。
『正しいことと確信していたとしても、周りが望んでいないなら、
無理押しはしちゃいけない。まして、一番下っ端なのだから』
この一言が私に三度目の退職を決意させた。
だが、私個人にとっては、この三つ目の会社の選択は間違ってなかった。
最初の目的だった、『世間知らずからの脱却』はある程度の成功を収めていた。
いろいろな現場を回る中で、
札幌でもフリーランスとして活躍するエンジニアがいることを知り、
組合に所属することで、営業の負担も減らせることを知ったのである。
2007年1月、社長に退職とフリーランスとなることを伝え、
当時常駐していた仕事は、契約を引き継いで続けることを決まった。
そうして、同年4月から、フリーランスとしての生活がスタートしたのである。
フリーランスとなった当初は、仕事としてはそれほど新鮮味はなかった。
現場は同じところで継続している。内面的なものは別として、
生活の実態はほとんど変わっていない。
ただし、経済的な面では別だった。
フリーランスの報酬は給料とは違う。
支払いは会社への支払いと同様、いわゆる支払いサイトというのがあり、
向こう三ヶ月間は無収入だった。
組合から開業資金を借り入れ、そのために、入金が始まっても、
やはり最初の何ヶ月かは金額は少ない。
だましだましのスタートだった。
どうにか無収入期間を乗り越えた矢先、
初収入が入った7月、予想外のトラブルが発生した。
突如、左耳に異様な耳鳴り、かゆみ、めまいという症状がでる。
診断の結果は急性低音型感音難聴。いわゆる突発性難聴とよく似た病気だった。
約10日間の緊急入院とステロイドの投与による治療。
それでも、回復の見込みは6~7割程度といわれ、
可能性としては、右耳も聴力が低下しているために、
完全に聴力を失うこともあると言われた。
10日間、体は元気で点滴をしたままの状態。
その間、ノートを何冊か持ち込んで、
とにかく考えたことを書き込み続けた。
その結論は、
『頭が動いて、目が見えて、両腕が使えればプログラムは書ける』
ということだった。それでできるような仕事の仕方にすればいい。
いつ再発して、今度は本当に聞こえなくなるかもしれないけれども、
そうなっても困らないような仕事をすればいい。
この10日間の間に私は今の仕事を選ぶ決意をした。
現場の仕事の切れ目であった10月、
『情報工務店コラボロジック』の屋号でWebシステム開発を始めたのである。
その後は何度も苦しい状態を経験しながら、
だましだましではあるものの、どうにか今年で5年目となる。
節目の年だ。
過去を反省しつつ、新しいステージに飛び込まねばならない。
書捨て御免!
私が個人事業主としてスタートしたのは2007年の4月。
持ち帰りの仕事を中心にして、いわゆる現場常駐からSOHOの形態に移行したのが、
同年10月のことだった。
元々は1,2年は現場常駐をして、お金をためつつ人脈を広げてから、
SOHOになろうと考えていた。
当時大変景気の良かった名古屋への遠征なんかも考えていた。
それがわずか半年で、常駐をやめたのにはわけがある。
が、その前に、そもそも独立にいたった経緯から書くことにする。
私の職歴はろくなものではない。
2002年に大学を卒業、道内の中堅ソフトハウスに入社。
携帯電話の品質管理部門に配属されたが、
わずか9ヶ月で退社。
2003年は大学の研究生をしながら、アルバイトで食いつないだ。
2004年からは小規模ではあるものの老舗のホスティングサービスを運用する会社に入社。
Web開発の技術については、研究生のころから手をつけ始めていたが、
現在も飯の種になっているWeb系の技術はこのころ身につけたものだ。
だが、2005年5月にその会社も退社。14ヶ月ほどだった。
そのとき考えたことは、『自分は会社を辞める人間なんだ』ということ。
20代前半で2回も会社を辞めたともなれば、経歴としては傷だらけだ。
ならば、自分は会社を辞めるであろうことを前提に、
次のキャリアを考えるべきという結論に至る。
選んだのは、いうなれば業界最下層。
技術者をばら売りで供給する半派遣のソフトウェア会社だった。
2005年7月に入社。
入社に対して、一つだけ社長にお願いをした記憶がある。
『できるだけ、短期間にいろいろな現場に行かせてほしい』
いろいろな理由もあって、二つの会社を辞めたけれども、
IT業界にはまだまだ自分の知らないことがあるはず。
だから、世間知らずを脱却するために、いろいろな経験がしたかった。
結果、社長は私のリクエストに答えてくれた。
私も、会社の中では若手ではあったけれども、
現場だけでなく、社内的な活動についても積極に取り組んだ。
しかし、それが裏目にでることもある。
その会社の社長は何事も社員との合議で物事を決めるタイプで、
私のようなものを言う社員にはいろいろなことを相談していた。
同じように積極的に社長に意見を述べる年の近い上司と対立し、
他にも些細な問題が持ち上がる中で、渦中の人になってしまう。
結果、会社を辞めざるを得なくなる。
その会社には私の大学の同期だった男がいた。
退社の決意を決めるにいたったのは彼の一言だった。
会社が悪いほうに向かうと確信していた私は、
玉砕覚悟で最後まで抵抗しようと考えていたが、
彼はこう言ったのである。
『正しいことと確信していたとしても、周りが望んでいないなら、
無理押しはしちゃいけない。まして、一番下っ端なのだから』
この一言が私に三度目の退職を決意させた。
だが、私個人にとっては、この三つ目の会社の選択は間違ってなかった。
最初の目的だった、『世間知らずからの脱却』はある程度の成功を収めていた。
いろいろな現場を回る中で、
札幌でもフリーランスとして活躍するエンジニアがいることを知り、
組合に所属することで、営業の負担も減らせることを知ったのである。
2007年1月、社長に退職とフリーランスとなることを伝え、
当時常駐していた仕事は、契約を引き継いで続けることを決まった。
そうして、同年4月から、フリーランスとしての生活がスタートしたのである。
フリーランスとなった当初は、仕事としてはそれほど新鮮味はなかった。
現場は同じところで継続している。内面的なものは別として、
生活の実態はほとんど変わっていない。
ただし、経済的な面では別だった。
フリーランスの報酬は給料とは違う。
支払いは会社への支払いと同様、いわゆる支払いサイトというのがあり、
向こう三ヶ月間は無収入だった。
組合から開業資金を借り入れ、そのために、入金が始まっても、
やはり最初の何ヶ月かは金額は少ない。
だましだましのスタートだった。
どうにか無収入期間を乗り越えた矢先、
初収入が入った7月、予想外のトラブルが発生した。
突如、左耳に異様な耳鳴り、かゆみ、めまいという症状がでる。
診断の結果は急性低音型感音難聴。いわゆる突発性難聴とよく似た病気だった。
約10日間の緊急入院とステロイドの投与による治療。
それでも、回復の見込みは6~7割程度といわれ、
可能性としては、右耳も聴力が低下しているために、
完全に聴力を失うこともあると言われた。
10日間、体は元気で点滴をしたままの状態。
その間、ノートを何冊か持ち込んで、
とにかく考えたことを書き込み続けた。
その結論は、
『頭が動いて、目が見えて、両腕が使えればプログラムは書ける』
ということだった。それでできるような仕事の仕方にすればいい。
いつ再発して、今度は本当に聞こえなくなるかもしれないけれども、
そうなっても困らないような仕事をすればいい。
この10日間の間に私は今の仕事を選ぶ決意をした。
現場の仕事の切れ目であった10月、
『情報工務店コラボロジック』の屋号でWebシステム開発を始めたのである。
その後は何度も苦しい状態を経験しながら、
だましだましではあるものの、どうにか今年で5年目となる。
節目の年だ。
過去を反省しつつ、新しいステージに飛び込まねばならない。
書捨て御免!