【物質的】には、母はいない。
母の体は存在せず、あるのは遺骨だけ。
そして心臓はないから、生きてはいない。
脳がないから意識もない。
でも、そのかわり、もう母の痛みを心配する必要はない。
母の苦悩を慮る必要もない。
そういう意味では心配しなくて良いから落ち着く。
なぜなら母はもういないのだから。
いないと言うのは寂しい。
寂しいと言う気持ちが母を思い起こさせる。
そしてその思い出の中には確かに母が存在している。
つまり【精神的】には、いつでもどこでも母は存在しているのだ。
存在するかぎり、過去の母への思いや後悔は残る。
母に会えて嬉しい半面、母の痛み、辛さ、悲しみを思い出してしまう。
要はバランスが大切なのだ。
後に残ったものが生きていくためには、ある時は忘れ、
必要なときに思い出す。そのバランスが大切なのだと思う。
そして、「忘れる」という事は決して悪いことではない。
自分にとって大切な誰かを亡くすと、その人を忘れて楽しいと思う自分が悪いような気がしてくる。でも、それは決して悪い事ではない。
むしろ、自分が生きるためには「忘れる」ことこそ、大切なプロセスだと思う。だって、決して、本当に忘れることなんて、できないのだから。