死生学【3】 | コリンのブログ

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「膵腺房細胞癌」でこのブログにたどりついた方がいましたら、2014年5月20日以降の「お母さん」というテーマで書いてます。

死生学 【3】 ライフサイクルと死
          武川正吾・西平 直 (編) 東京大学出版会

死生学の3巻を読みました。1巻より2巻、2巻より3巻・・・難しいです。難しいというより、内容が頭に入ってきません。でも、一応読んで目を通したので、印象に残っている事を本文から引用します。
(自分自身のためのブログ内容です。)

はじめに 

 高齢化した社会では、死にゆくことを見守る終末ケア(terminal care)だけでなく、生き延びるための介護(long-term care)が新たなケアの問題として浮上している。(P3)

→ 高齢者だけではなく、癌患者も同じなのではないかと感じました。末期ガンで状態が悪くなっても、介護保険の申請に悩む方が結構いることをブログを通して知りました。介護保険を利用するのは、終末ケアのためだけではなく、「よりよい時間を生き延びる」ための介護に必要なものとして捉えれば、もっと前向きに取得できるのではないでしょうか。

4章 死と親密圏

 死なないことはできないが、最後まで自分らしくあることはできる。それが、現代のよき死であり、当人のみならず周囲の近しい人々にとっても、それが慰めとなるのである。(P79)

→ そうですね。死なない人は、この世に存在しない。自分が死ぬときに、「いい人生だった」と思えたら、最高です。そして大切な人が亡くなるとき、満足して眠りについてくれたら、遺された者たちの心は多少なりとも救われるだろうな・・・と感じます。

10章 死の遺伝子からみた未来

 ひとつの受精卵から増殖・分化によって体細胞と生殖細胞が生まれ、ひとつの個体ができあがる。この体細胞のなかには再生する細胞と、再生しない細胞がある。そしてそれぞれにアポトーシスとアポビオーシスという細胞死がプログラムされている。
 なぜ両方の細胞に死をプログラムする必要があったのであろうか。
再生系の細胞は、人の場合、約60回ほどの繰り返しで限界がくる。いわば回数券のような「分裂回数」(分裂寿命)というプログラムがアポトーシスとしてセットされているのである。一方、非再生系の細胞は、人の場合、約100年ほど経つと寿命がくる。いわば定期券のように「生存期間」(分化寿命)というプログラムがアポビオーシスのなかにセットされている。
 では、なぜ死がなくてはならないのであろうか。
私たちの体の中では生きている間に、いろいろな遺伝子に傷が入って変異と呼ばれる現象が起きる。生殖細胞にも当然傷ができる。そうするとその異常になった遺伝子が子孫にも伝わっていく。もし古い遺伝子と新しい遺伝子とが両方生き残っていると、いずれ古い遺伝子と新たに生まれた個体からの遺伝子が合体する可能性もある。そうなると、子孫に遺伝子の傷が蓄積されていることになってしまう。それを「遺伝的荷重」というが、遺伝子のプールとしての種のなかに異常な遺伝子が蓄積していくと、絶滅してしまう可能性が高くなってしまうのである。種は遺伝子をプールしているものなので、種が絶滅してしまうことは、遺伝子自身が存続できないことを意味する。その危険性を確実に回避する一番安全な手段は、すべての体細胞に死をプログラムしておいて、ある時期がくると古くなって変異の溜まった遺伝子を個体ごと消去していくことである。そのために体細胞に死がプログラムされているのではないかと考えられる。(P212)


→ そういうことなんですね。種が存続するために、必ず「死」が必要ということなのですね。そう、だから冷静に考えれば死ぬ事は必要なことなのです。生物が生き残るためには、必ず死ぬように遺伝子に組み込まれているんですから。
 問題は、気持ちの方なんです。死ぬ事はわかっていても、気持ちがついていかないから、人間は苦しいのです。では、なぜ苦しみ・悲しみを感じる感情が人間は発達してきたのだろう?その答えが見えてきたら、もう少し「死」を理解できるような気がします。

 それから、私達夫婦に子供ができなかったのは、この遺伝子が問題のような気がします。夫婦仲は良いし、体も問題ない。良かれと思う様々な事をためして、お金もたくさんかけて・・・それでも子供に恵まれませんでした。それって、自分ではどうにも出来ないもっとミクロの世界の事なんだろうなと思うと、割り切るしかないですよね。そして種を残すために、私達夫婦の遺伝子が必要ないなら、今、与えられている自分の「生」をめいいっぱい生きて、生きて、生き抜いてやろうと思ってます。