昨日の記事で、私が男性に反抗心を持っているのは父母の夫婦関係の影響を受けていると書きました。父の強権的言動を私は中学生の頃から批判的に見ていました。それは母に対して絶対服従をさせていたからです。

家父長制の名残りの強い年代ですので仕方ないかもしれませんが、母は無抵抗主義で父のわがままも強権的言動も受け入れていました。

私にとって父は怖い存在でした。

怒られたことはありませんが、眼光鋭く睨まれると怖いという思いです。

厳格な人で、特に言葉遣いや作法には厳しい人でした。それでも末娘の私には甘かったようです。

父の生い立ちや立身出世物語は、ファミリーヒストリーというタイトルで書きました。

父は家族には厳格で短気でしたが、他人様には寛容で男気のある人でした。そして茶目っ気がある面白い人でもありました。

父のことで強く心に残っているエピソードがあります。


それは私が小学三年くらいだったと思います。

冬休みの頃だったと思います。

なぜなら、お昼に私は家にいたのですから。

その日、父は同じ町内の親戚の法事に行っていました。私の家の次の次の家が火事になりました。

外で誰かが「火事だ」と叫ぶ声がしました。

母と私は裏庭に出てみると隣りの隣りから煙が上がっていました。

母が「お父さんに知らせて!」と言いました。

父が行っている親戚は4、5軒先です。

私は必死で走りました。

親戚の玄関を開けるなり、「お父さん、〇〇さんちが火事!」と言うと父は裸足で飛び出しました。走りながら、和服を着ていたので、後ろ裾を帯に挟む、尻ばしょりをしながら、正にいだてん走りで駆けて行きました。

私は怖くて家に帰れず、震えながら他所の家の軒下に立っていました。

これはあとで聞いた話ですが、父は家に着くなり、小屋の軒下にかけてあるハシゴを下ろし、鎌を取り、水甕の水を頭から被り、ハシゴを肩に担いで、燃えている家の屋根にハシゴをかけて、駆け上がり、その家は藁屋根だったので、元結の綱を鎌で次次に切ると麦藁がドーンと下に落ちて、燃えるのを防いで半焼で済んだそうです。

その話を父から聞いて、なんと勇気のある人だと思いました。


☆人命救助 

家の前に川があり、海に近いので、潮の満ち引きで水量が変わっていました。

夏になると子供達は、その川に飛び込んで泳いでいました。でも溺れる子供もいて、溺れたら、私や他の子供達は私の父を呼ぶのです。

父は夏場はパンツ一枚姿でしたので、すぐさま飛び込んで助けた子供は何人もいました。


⭐︎喧嘩の仲裁

昔は田舎では親戚同士の喧嘩や仲違いがよくありました。そんな時、仲裁に呼ばれて父はうまくとりなしたり、名奉行役をしていました。


⭐︎几帳面な性格

父は非常に几帳面な性格でした。

物には全て名前を書く。下駄や草履にも名前を書いていました。

野菜など植えたら作付け日記に克明に記録していました。

畑の畝作りする時は綱を張り、一直線に畝作りをするので、通りがかりの人は「お宅の畝はお菓子のように綺麗!」と言ってました。

又野菜の出来が良いと通りがかりの人に良い物から上げるので、家用は形の悪い物ばかりでした。


そんなお人好しの父でしたが、母にはわがままばかり言っていました。あれは母に甘えていたのだと理解できたのは私が結婚してからでした。チュー



↑の写真は大阪時代。

私はまだ生まれてなかった頃。

姉が女学校に入ったばかりの頃と思います。

父が40才くらい。父の横に座っている少年は私の兄。

後ろに立っているでかい人は父の従兄弟の息子で、後に姉が結婚した人の弟。姉の最初の夫は戦死したので、後年再婚したのが、このでかい人です。犬はセパードで軍用犬の訓練を受けて、全国大会で優勝して秩父宮賞をもらった優秀な犬です。 

⭐︎多趣味

父は多趣味の人で何事も一流、一級でないと嫌な人です。書画骨董、刀剣、甲冑、盆栽、写真、犬(セパード、スピッツ、テリア)や猫(シャム、チン)小鳥(カナリア、文鳥、鸚鵡、闘鶏、、)金魚など、全てが品評会で一等になるものばかりでした。写真は自分で現像、焼き増し、引き伸ばしもしていました。凝り性なので何でも道を極める人でした。稽古事は三味線、バイオリン、小唄、端唄、新内など全て先生について習っています。

意外なのが、父はマラソンもしていました。 

青年時代からしていて、島原半島一周マラソン大会ではいつも1番。大阪に移転してからも、マラソン大会では、いつも1番。40才の時、2番になったそうです。以後マラソンはぷっつり辞めたそうです。それほど負けん気が強かったのですね。

それとオシャレさん。一級品の洋服や着物、靴、帽子、ステッキ、日傘、時計、時計はスイスの有名なメーカー、カメラはドイツ製、服はイギリス製。メーカーも一流。贅沢し尽くした父は田舎に移転してからは環境も変わりましたので、趣味も昔のようにはできないでいました。 

松の盆栽と菊作りはしていました。 

盆栽は田舎には売ってないので、山から幼木を採取して育てていました。  

菊は大輪やケンガイを作っていましたが、見事なものでした。

私が知る父は、悠々自適の生活を送っていましたし、欲などない人でした。

人は正直で誠実でなければいけないと言ってました。

自分の生活がそこそこできるなら、社会に奉仕しなさい、世界中の皆んなが幸せになれば、最後に自分に幸せが巡ってくると言ってました。

暴君ではありましたが、真は優しい人でした。


晩年の父。

田舎の家で、撮ったのは私。刀の手入れをしている父です。


今日は息子夫婦は日曜日ですが店休して旅行に行っています。

私はピピを病院に連れて行きます。

午後から踊りの友人が来て稽古をする予定です。

それではまた!