「ブォンジョールノー!!」


イタリア語の挨拶だが、心情的には道場破りの掛け声に近かった。

ヨーロッパでは電車の隣の席の人にも挨拶するくらいの話をどこかで読んだことがあるが、隣の人に挨拶してもシカトされることもある。

実際、どんな場面で挨拶をするのかという現地の常識はよく分からない。

しかし、ミラノからニースへ向かう列車、今日は長旅だ。

列車の席はボックスシートになってるようだから、挨拶をしておいたほうが無難だ。

そんなわけで、シカトされたらどうしようという思いは拭い去れずにいたものの、自分のチケットナンバーの席があるボックスに入るときに、満面の笑みで(しかし、視点は定まらず)声を張り上げた。


一瞬、ボックス全体の空気が固まったかのように思えたが、奥にいた老夫婦が嬉しそうな笑顔で「ブォンジョルノー!」と返してくれた。

ボックスは6人掛けのようで、老夫婦の他に若い女性が1人座っていた。

席は三人掛けが向かい合わせになっていて、それぞれの座席の上には大きな旅行用カバンも乗せることができるステンレスかなにかの棚がある。

早速、棚に荷物を乗せようとしたところ、困ったことに気が付いた。

ヨーロッパでは、人前で靴を脱いでソックスを見せるなんてありえないって聞いたけど・・・

どうしよう、まさか土足でシートに乗って荷物を上げるわけにもいかない。

どうしたらいいかわからないときは日本式だ。

正面に座っていた二人に軽く会釈をして、靴を脱いで素早く荷物を棚に乗せた。

意外と大丈夫っぽい。

そうするしかないもんな・・・


先客の三人はどうやら家族らしい。

英語は大分苦手らしく、イタリア語でペチャクチャと話しかけてくる。

無論、何を言ってるのかさっぱり分からないので、鞄の中からイタリア語の「指差し会話帳」を取り出そうと鞄を探った。

しかし、イタリアのガイドブックと共にイタリア関係の本は前夜の荷物整理で鞄の一番下にしまっているので、取り出すことはできない。

電子辞書で調べながらリアルタイムの会話をすると言うのは難しいので、とりあえずニコニコしておいた。


こちらがニコニコしていると、よっぽどバカそうに見えたのか、カタコトの英語を織り交ぜるように話してくれるようになった。

英語と言っても、時々補足の単語を付け加える程度だ。

英語のレベルに関しては似たもの同士だったので、それはそれでよかった。


電車が発車する前に残りの二つの席にも二人組みの若い女性が座ったのだが、2人組みの男性に連れられてどこかに行ってしまった。

その時点で、ニースまでの指定席の2つが空き、イタリアとフランスの国境は残った4人で越えることになる。

かくして、おしゃべりなイタリア人とテキトーにあいづちを打つ日本人の、成り立っているのか成り立ってないのかよく分からない英会話がここに始まった。


つづく・・・


旅の指さし会話帳〈6〉イタリア (ここ以外のどこかへ!)/堀込 玲
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ミラノを南下してしばらくすると港町ジェノバに着く。

ジェノバから海岸線に沿ってフランスとの国境駅ヴェンティミリアに達するまでの道程は、「花のリヴィエラ」と言われ、ヨーロッパの鉄道の絶景ルートとして取り上げられることが多い。

「花のリヴィエラ」は気候が温暖で、一年中花が絶えないということである。

天気は晴れ晴れ

列車は、この海岸線の絶景ルートに向け高速で走っていたが、車内ではスロー再生のようなスピードでの会話が繰り広げられていた。


「海はどっちですか?」


「なんだって??」


「海はどっちに見えますか?こっち側?こっち側?」

右手の窓と左手の窓を交互に指差しながら言う。


「は?」


「海ですよ!海!シー!オーシャン?」


「マーレ!?」

ここで、イタリアの老婆は「シー」が「彼女」じゃないことに気付いてくれたらしい。


「マーレ」なんて言葉は自分からは出てこないけど、言われて思い出した。

確か、イタリア語で「海」って意味だ!


「マーレ!!」


「マーレ!」


「マーレ!マーレ!」

3人は満面の笑みで「マーレ」を繰り返した。

しかし、イタリア人の娘だけは「アホか・・・」という表情で、海が見えるのとは逆側の窓を眺めていた。

娘だけは、正常なのか??



喜びも束の間、意思疎通がなかなか難しいと考えた3人の「マーレ」は次第に小さく、頼りない響きとなっていった。

「マーレ・・・」


「マーレ・・・」



このままではいけない!

そこで、伝わりやすくてたわいのない質問をしてみることにした。

「ここはイタリア??」


「!!」


海岸線にも達してないから、イタリアに決まってる。


「ディス!イズ!イターーリア!!」

老人の顔に笑みが戻った。


「ここはイタリア!!」


「ここはイタリア!!」



娘は窓の外を見ながら、「入信してたまるか。」という思いを貫いていた。


つづく・・・

「花のリヴィエラ」へ向けて列車は走る。

そしてその列車では、ほとんどしゃべれない英語で日本人の講演会が行なわれている。



「アイ ライク イタリー♪」

「ローマ、フィレンツェ、ミラノー・・・!」

・・・英語じゃなかった。


しかし、イタリアの老紳士にはそれで十分であった。

クリッとした目をキラキラ輝かせて、きれいに並んだ歯を見せながら喜んでいる。

「フィレンツェー!ミラーノー!」

そんな会話にもなっていないようなコミュニケーションは奇跡的に続き、列車はいくつかの駅を越えていく。



「彼女はの母親はフランス人だ。」

娘を指して老人が言った。


なるほど、じゃあ娘じゃなくて孫かと、老人の伝えようとしていた趣旨とは関係のないところで納得する。


「おまえは結婚してるのか?」

突拍子もないことを聞く人である。

結婚してたらこの年で一人旅なんかするもんか・・・


「彼女はどうだ?」

よりいっそう目を輝かせて老人は言う。


「え?えー・・・!?」

真正面の彼女のほうを見ると、こちらを凝視している。

髪も目も黒かった。

彼女は誰かに似てる。

昔会った誰か・・・


そうだ。

昔働いてた営業会社のテレアポのおばちゃんだ。



「ア、アイライク・・・ジャポネーゼ!」

しまった、うっかり本音が出た。

言葉がしゃべれないと、やんわりとした切り抜け方もできない。

どうなの今の?と思って老人の顔色を伺うと、変わらない笑顔だった。


「ジャッポネーセー!!」

「ジャッポネーゼー!」


笑顔が引きつってないか気にしながら正面を見ると、娘も微笑を浮かべていた。



列車はさらに進み、ジェノバを越える。

海が見えるのは自分が座っているのとは反対側の窓だ。

ボックスにはそれぞれ扉があり分離した個室になっていて、海が見えるほうの窓側は通路になっている。

「マーレ、マーレ!」

腰を上げてボックスを出た。

しばらくの間はボックス内を家族だけの空間にしてあげることにした。



通路の窓の下には、それぞれに飛び出し式の補助席が付いている。

補助席を出して腰をかけると、窓の外に「花のリヴィエラ」の海岸線が流れていた。

車窓を眺めながら、イタリアでの数日間のことを考えた。

そして、長い間思いを寄せていたフランスがすぐそこまで迫っているということを感じ、心を躍らせるのであった。



つづく・・・