聞くことは真理の知的理解を助け、

瞑想はその理解を明瞭にし、

黙想が真理の実現をもたらす

ラマナ・マハルシとの対話より


私(この肉体)は、真我探求を終えた肉体ですが、人間としての心はもちろん残っています。


いや、残っているという表現は間違いで、心が出てきますの方が合っています。


しかし、この時々出てくる心は、完全に真我に明け渡しています。つまり、個人を放棄して開放されています。





どの肉体でも強い自我を持っている間は、楽しいこと嬉しいことももちろんありますが、辛いこと苦しい事の方が心の隅々まで浸透し長く居座ります。


この苦しみに耐えきれなくなった時、悟りを開きたいと思うようになるのです。


悟りを開くというのは簡単に言えば、自分は誰なのか分かるということ、もっとはっきりと言えば個人の私は存在せず、真我(原初の力)がすべてを顕現しているのだから、私個人には何もできないのだと明け渡した状態になることです。


この状態になると苦しみが激減します。なぜなら私には何もできないと分かっているからです。


これこそ真理です。




もちろん、自我が残っている肉体にはこれを受け入れることは不可能です。なぜなら、自我は明け渡しを拒み生き残ろうとする性質があるからです。


したがって、本気で悟りを開きたいと思う肉体にしか、私の言葉は絶対に受け入れられません。


私も真我探求の序盤では、ラメッシ・バルセカールの言葉を受け入れられませんでした。それはもう苛ついたものです。


しかし、今は彼の言葉が真実であったと実感しています。





真我探求こそ、悟りを開くための最も近道です。

真我探求が終わるとき、個人の私(相対的な見る者)はいなくなり、認識主体だけが残ります。

この認識主体は、目覚めているときは、絶対的な見る者として有り続けています。


 「見られるもの」(ドリシャ)

完全に消え去るまで

「見る者」(ドリク)を探すこと

によって、相対的な「見る者」

はより希薄になり、

最後には絶対的な「見る者」

だけが残ります。

ラマナ・マハルシとの対話より