忘我の境地、それは真我です。


忘我の我とは、自我のことです。

自我、つまり「私」がいないところが、忘我の境地です。



この文章を書いている私は、真我探求を終えた者ですが、では、「私」が全く出てこないかというと、そういう訳ではありません。


徹底的に明け渡しをした、真我に従順な自我は残っています。


しかし、この従順な自我でさえ、大抵は真我(純粋意識)と一体化せず、ただ観照されています。


恐らく、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジ、老子などの大覚者は、この従順な自我でさえ、ほとんどなかったのだと思います。





しかし、そうは言っても、覚者に全く思考が出てこないわけではありません。思考は自動的に多かれ少なかれ出てきます。



したがって、覚者であろうとも、あまり歓迎しない思考が起こった場合、故意に(しかしこれも自動的な故意ですが)忘我の境地に入ります。



例えば、ラメッシ・バルセカールは、嫌な思考が出てきたら、意識からすぐにその思考を切断すると言っています。これは、忘我に入ることと同義です。


ラマナ・マハルシは、頻繁に忘我の境地に入っていたようです。その姿は、何も見ていないような、徹底的な内観の姿でした。


私の場合(私などいませんが)、嫌な思考が出てきた場合、まず内観し、そしてすべてになります。この状態の時、個人の私はいません。




深く深く忘我に入ると、サマーディになります。いわゆる、三昧です。



目を閉じて瞑想を行いサマーディに入る人がほとんどのようですが、私は目を開いたままサマーディに入ります。ラマナ・マハルシも目を開けたままサマーディに入っていたようです。


この境地は、言葉では説明不可能です。


なぜなら、何もない境地だからです。敢えて言えば、何もない境地がすべてにあるという感じです。


これが、真我であり、これこそが実在です。




この忘我の境地に深く入っている、ラマナ・マハルシの様子が動画として残っています。ぜひ、見てみて下さい。12:30から内観が始まり、忘我に入っています。↓