多分、何方様も中学校古文授業で接したことあるだろう

枕草子冒頭部分

 

はあけぼの。
やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。


月の頃はさらなり、闇もなほ、蛍のおほく飛びちがひたる。
また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。
雨など降るも、をかし。

夕暮れ
夕日のさして、山の端いと近くなりたるに、烏(からす)の、寝所(ねどころ)へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへ、あはれなり。
まいて、雁(かり)などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。
日入りはてて、風の音、虫の音など、はた、言ふべきにあらず。

はつとめて。
の降りたるは、言ふべきにもあらず。
霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。
昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶(ひおけ)の火も、白き灰がちになりて、わろし。

 

 

枕草子』(まくらのそうし)とは、平安時代中期に中宮定子に仕えた女房清少納言により執筆されたと伝わる随筆。ただし本来は、助詞の「の」を入れずに「まくらそうし」と呼ばれたという。執筆時期は正確には判明していないが、長保3年(西暦1001年)にはほぼ完成したとされている。枕草紙」「枕冊子」「枕双紙」とも表記され、古くは『清少納言記』『清少納言抄』などとも称された。

 

 

 

この部分と似ているなあと思ったのが

 

 

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_03157/i04_03157_0002/

 

(なきにしもあらず)

春は藤波を見る、紫雲のごとくして西の方に匂ふ。

夏はほととぎすを聞くく、かたらふごとに死出の山路をちぎる。

秋は日ぐらしの聲耳に充てり。空蝉(うつせみ)の世をかなしむかと聞ゆ。

冬は雪をあはれむ。つもりきゆるさま、罪障にたとへつべし。

(若し念仏物憂く読経まめならざりしかる時は・・・)

 

方丈記』(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、鴨長明による鎌倉時代随筆[1]日本中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』、『枕草子』とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。

末尾に「于時建暦ノフタトセ、ヤヨヒツコモリコロ、桑門ノ蓮胤、トヤマノイホリニシテ、コレヲシルス」(大福光寺本)とあることから、1212年(建暦2年)3月末日に記されたとされる。

 

 

ね!!似ているでしょ!

方丈記を読み込んでいて

何故、初めて読むのに知ってる気がするのだ??と思ったら

枕草子が浮かんできた。

 

でも、同じ春夏秋冬を述べているのに根底に潜む無常観が

全く違う趣を醸し出しているよ。

 

〘名〙 むらさき色の雲。めでたいしるしとされ、念仏行者の臨終などにあたって、阿彌陀仏がこの雲に乗って来迎(らいごう)するという。

※文徳実録‐仁寿二年(852)二月丙辰「播磨国言、紫雲見」

※宇治拾遺(1221頃)一三「観音、蓮台をさしあげて、聖のまへにより給ふに、紫雲あつくたなびき」 〔南史‐宋文帝紀〕

[補注]神仙・道教思想に源があり、徳の高い天子・君子が在位する時に現われるとされる。「文徳実録」の例は和気仲世を讚美したもので、仲世の死とかかわって述べている。仏教では、紫雲は念仏行者の臨終が正しく浄土往生であることを証明するものとされた。

 

 

 

ホトトギスの異称のうち「杜宇」「蜀魂」「不如帰」は、中国の故事伝説にもとづく。長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。また後に蜀がによって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 何よりも帰るのがいちばん)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い、ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになった。

 

夜に鳴く鳥として珍重され、その年に初めて聞くホトトギスの鳴き声を忍音(しのびね)といい、これも珍重した。枕草子』ではホトトギスの初音を人より早く聞こうと夜を徹して待つ様が描かれる。

 

 

 

 

現代語訳を読んでいただくと一層、分かりやすいかな。

 

ね、枕草子のように春夏秋冬を書き連ねていて

執筆時期から見ると

枕草子(西暦1001年頃)

方丈記(西暦1212年)なんで

鴨長明さん、枕草子を知ってて、意識して書いたのかなあとも思える部分だよ。

 

それでも、文章の中に漂う仏教への傾倒具合

今の常識感覚で量ると間違えちゃうね。

あくまで方丈記を読んで

時代背景を読み込んで

そして、この春夏秋冬を部分を読むと理解出来るのかな。

 

枕草子           方丈記

春・・・紫立ちたる雲   春・・・紫雲

夏・・・夜          夏・・・不如帰(夜に鳴く鳥)

秋・・・夕暮れ       秋・・・ひぐらし(茅蜩秋蜩日暮晩蟬)

冬・・・雪          冬・・・雪

 

もうね、見事に対比させて

そして、鴨長明さん流の春夏秋冬を描いているよ。

 

多分、研究者の皆様がもっときちんと研究して比較して論文なんかいっぱいあるだろな。

それでも、それでも、そんなの何も知らないフィフィが

自分であれ?なんだろう?って思えて

ここまで調べること出来たのが良かったな。