【古文書】 五節供餝之法禮 五十一

翻刻文(お家流草書をそのまま楷書に現す)

  祭流法なり是を乞切酋と

  申也

   七夕濃あふ夜の空の顔

   見へてかきなら偏多る

   文飛路け月

   草濃うへ尓露と流と流今朝

   の玉景者乃き者の梶の

   もとして毛なし

  露取草とていも葉に有



 祭る(奉る)法なり 是を乞巧酋(きっこうでん)と

  申す也

   七夕の遇う夜の 空の顔

   見えて 書き習えたる

   文と三日月

   草の上に露とるとる 今朝の

   玉景は 軒端の梶の

   音してもなし

  露取草とて 芋葉に有り



きっこう‐でん 〔キツカウ‐〕 【▽乞巧×奠】
古文書の中では「乞切酋」とあるが
書き違いか、当時はこのように書いていたかだと思われる

この耳慣れない「乞巧奠(きっこうでん)」という言葉は、中国から星伝説と一緒に伝わった習慣で、初めて日本で行われたのは奈良時代の事です。「乞巧(きっこう)」は巧みを乞う、「奠(でん)」には祀る(神をあがめる)という意味があります。そんな意味から、奈良時代の孝謙天皇という女性の天皇が技巧や芸能の上達を願って、「乞巧奠」を行ったと言われています。
 そうして、この習慣は宮中に広まって糸や針の仕事を司るとされていた「織女星(織姫星)」が輝く「七夕」の夜に、宮中の女性達が御供え物をして、機織やお裁縫が上手くなる事を祈る女性の祭りとなりました。しかし、それから暫くして「星伝説」の主役になった二人に因んで、男女の良縁を祈る意味も加わりました。そうして「乞巧奠」が「祭り」に変化して定着すると、平安時代には宴や相撲大会が開かれたり、室町時代になると「織女祭り」という名で宮中行事の一つになりました。
 江戸時代頃になると、本来の「乞巧奠」の作法は省略されて原型を留めなくなりましたが、御供え物や願い事の習慣は庶民の間にも広く浸透して現在まで残っているのです。




七夕と文月

七月は「文月(ふみづき)」と呼ばれています。この「文月」は主に「旧暦の七月」に対して使われますが、この名称で呼ばれるようになったのは「七夕」が関係していると言われています。
 その理由としては、一般大衆に「七夕」の行事が広まった際に短冊に願い事の「文(ふみ)」を書くからだと言われています。しかし、この「文月」に関する由来は他にもあります。その一つが秋になって収穫間近の稲穂が大きくなっている事から、稲穂に米が含まれている月で七月を「含月(ふくみづき)」と呼び、それが変化して「ふみづき」になって、後から「文月」という漢字を当てはめたという説です。

七夕と棚機女(たなばたつめ)

中国から伝わった「七夕」に関する行事が、今も途絶えることなく続いている背景には、日本が稲作を行っていた他に「古事記」に登場する「棚機女(たなばたつめ)」を信仰していた事が関係していると考えられています。
 この「棚機女」とは織物を作る手動の機械を扱う女性を指し、「古事記」にちなんで天から降りてくる水神に捧げるための神聖な布を穢れを知らない女性が「棚造りの小屋」にこもって俗世から離れて織る、という習慣がありました。
 この女性が過ごす「棚造りの小屋」とは、日本語の「棚」に含まれる「借家」の意味をこめて「布を織る間だけ借りる家」という意味があります。そして、この「棚」は俗世から女性を離すために高い柱で支えられていました。現代の私達には、この「棚造りの小屋」は馴染みのない物の様に感じますが、家の高い所に置いて神様を祭っている「神棚」と同じような物です。


古文書の中の歌の原典かな


日本最古の歌集である「万葉集」に百三十首を越える七夕(たなばた)の歌が残っていますが、そのほとんどが男女の恋の物語として詠まれています。特に飛鳥時代に「歌聖」として有名だった「柿本人麻呂(かきもとのひとまろ)」という歌人は、恋歌(れんか)という恋を題材した歌を多く残しており、その中には七夕を題材にした歌も含まれています。その一つが、万葉集第十巻に残っている下記の歌です。
原文:天漢 梶音聞 孫星 与織女 今夕相霜

読み:天の川、楫(かぢ)の音聞こゆ、彦星(ひこほし)と織女(たなばたつめ)と、今夜(こよひ)逢ふらしも
意味:天の川にかじの音が聞こえます。彦星(ひこほし)と織女(たなばたつめ)は、今夜逢うようです。

この歌でなくても
古文書の中の歌は多分、万葉集に載っていると思われる
江戸期の人の教養の高さがうかがい知れる

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