神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。
(コリント人への手紙第一 10章13節)

 

という聖書の一文がある。

だれでも聞いたことあるでしょう。

でも、試練と訳された英文字がTemptationであることは

あまり知られていないかもしれない。

直訳するなら『誘惑』と訳すのが正しい。

誘惑と試練では月とスッポンだ。

そのうえ、これには続きがある。

悲しみや苦しみは(乗り越えられないから)

キリスト(神)と深く交わりましょうという

布教めいた形へ結ばれてゆく。

哲学と宗教は似ているけれど、

この一点でベクトルが左右へ向かい、

だから宗教は物語の域を出ないのだろう。

 

人は、

物語を生きているのではないとすれば、

哲学に生きているのだろうか。

 

 

青空に雲がはやいという朝は決めかねており今日ゆく道を

羽根の折れし風車そのまま川の辺に佇ちつくすなり風に吹かれて

野に太き南天の紅き実の房は己が重みに空を仰げず

原佳子

 

 

頁毎に念を押すようにあらわれるのは

青空、道、風、川、野、そして空。

これらはわたしたちの五感が

早速働くものであるはずなのに、

ひとたび原さんが詠むと

無臭で質感がなく

手を伸ばせばすり抜けてしまう。

だからといって無機質ではない。

これは一体なんだろうと読み進む

 

 

木の葉には表がありて裏があり返さずにおく人の言の葉

原佳子

 

 

から始まる4首の

言の葉シリーズ(『言の葉』が含まれる歌)に出会う。

それは

積もったり冷えたり消えたりと、

本物の植物よりずっとたよりない。

季節にかかわらず、

生きている限り

ふりこぼしていくしかない渦のようにも見えてくる。

 

そしてここからは、

ひどく険しい。

 

目を伏せる。

何度も何度も歌集を閉じる。

そのたびに、

心が深い場所にしっかりと置いてあるかを

確かめながら、ゆっくりと歩を進めてゆく。

 

長生きの猫ひったりとわれを見る遠くを眺めるような顔して

原佳子

 

原さんが自身のことを

吾 から われ に表記を変えて

長生きの猫と共に登場したころ、

やっとひとつ深呼吸できたのだった。

 

それまでにも われ や わたくし は

少ないながらも登場していたが、

長生きの猫には神の匂いがして

いや、神といえば単なる物語になってしまう、

哲学だ。

哲学として、われ という主体を

青空や道や風や川や野や、そして空として

遠くを眺めるように見ている。

先に、

原さんが詠むこれらの正体はなんだろうと

問い掛けたが、それはすべて原佳子さんだったことに

ようやく気付かされるのだ。

道理で、

透明感があるのに無機質ではないと感じたわけである。

血肉の通っている類いまれな透明感。

手ざわりは、ない。

 

雪原を汚したようにみえたわたしの足跡(拝読)は、

振り返れば新しい雪がつぎつぎに覆っており、

読み了えた歌集は、汚れるどころか

一層孤高に在るようだった。

 

 

よろこびの種をみつけて暮らそうぞポテトサラダが美味しくできた

原佳子

 

うしろから数えて3首目に置かれている

長い長い問いの先の、答えのような一首。

前を向いた時、

ポテトサラダのようなものが

その前の前にある。

これもまた向くための前であることが

救いであるように。

無宗教であるのに、祈っている。

 

祈っています。

 

 

文中短歌はすべて

歌集『空ふたたび』 原佳子著 ながらみ書房 より引用