某日。

平日というのに

名古屋駅の新幹線チケット売り場は長蛇の列。

行儀よく並んだ人々のS字が何十にも重なって

行儀よいまま入口をはみ出している。

それを眺めながら金時計のほうへ進むと

土産を取り合っているようなキオスクの混雑ぶりに遭遇する。

奪い合ってまで買う土産が名古屋にあったか?

奪い合っていると感じただけで

強いてインパクトのない名古屋土産に

あちらこちら手にとっては

なにを買おうか迷っている人たちなのか?

まあどちらでもいい。

どちらに決めて欲しい問題でもない。

言えるのは、少なくても今自分には

新幹線で行く場所も土産を買う人もいないということだ。

それはなんだか孤独で寂しい。

これが大型連休であればまだいい。

体を休めに行く先々を想像したり

久しぶりに会う大切な人に買う土産を選ぶのも

楽しいだろうと心が温まる。

つまり、

同じ俯瞰でもこういうときは天使のような俯瞰なのだ。

 

金時計を過ぎ中央郵便局を背にし広小路のほうへ渡ると

新しい飲み屋さんが次々と現れる。

こんな場所にこんなお店が!

こんな時間にこんなひとが!、と今日は驚いてばかりである。

 

日の長くなってきた平日の春の飲み屋さんは

どこか駆け込み寺のように悠然として

新幹線や土産を買うあてのないわたしたちを

どこまでも飲み込んでゆく。

ならば飲み込まれてやろう。

このさびしさにもうすこし付き合うつもりで

ビールと姫筍の天ぷらを頼む。

もう春からは逃げられないんだし。