まだコートが手放せない3月、

地下鉄鶴舞公園駅で降りる人が増えてくると

そうは言っても少しずつ春はきていると感じるものだ。

それにしても、

4月の夜はまだ寒く風すら吹いているのに、

桜を見に行こうという人びとの心意気には感心する。

桜の木の下で宴会をすることは禁止されたにもかかわらず、

桜を見たいという熱量は、場所取りのために走っていた頃と

なんら変わりない。

春寒に震えながら、綺麗と言い合っている人たちを想像すると、

連れ立ってどこかへ行くことこそが重要で、

桜は単にあとづけなのかもしれないが、

なにも花見でなくてもいいのにご苦労様です、と

短歌や俳句を嗜む者が最も言うべきではない声を、

うっかりかけてしまいそうになる。

 

雨予報の前日。

著名人でもくるのかというほど

一斉に多くの乗客が降りたあと、

車両に残された者たちはホームの異常な混雑に目を奪われ、

一瞬なんともいえない優越感を共有するのだが、

電車が走り出せば、どことなく罰が悪いというように

それぞれの内側に感情を飲みこんでゆくのだった。

優越感というなら、本来桜を見にゆく人たちが

わたしたちに抱く感情だ。

どうだ、雅だろう、とでも言うように。

雅かぁ。

なんだか面倒くさそうだなぁ。

 

そんなこと言っているうちに

今年も桜は散ってしまいました。

さようなら雅。

さようなら雅的なものたち。