某日。

朝、ベランダに目をやるとみたこともない光景があった。

 

柿干しとるやんけ🍊

 

家人が彼の実家の庭にある渋柿の木から

たわわに実る柿をいくつか捥いで持ち帰り、

YouTube等で検索しながら挑戦したらしい。

毎年義母がつくっていた干し柿だけど、

春から体調を崩しているので、今年は、というより

もう永遠に義母の干し柿は食べられないとおもっている。

干し柿どころか、らっきょう漬も絶品唐揚げも天ぷらも煮物も…、

義母から生まれるあらゆる名品を食べることは、

もう絶望的なのだった。

 

正確に言うと、この干してある柿は義母のそれではない。

ないのだけど、

干し柿など見向きもしなかった息子(家人)が

幼少期から、庭に、食卓に、

秋冬の日々にあった干し柿の気配がないことに気づき

林檎すら剥いたことのないくせに

干し柿作りにをしてみようとおもったのは、

どこか感動的ではないか。

嫁ではなかなかそうはいかない。

 

我が家人。

時々言っているように、器用貧乏サラリーマンである。

革靴やジーンズのほつれくらいはじぶんで縫ってしまうし、

裾上げも、裾上げテープを寸法に切り取り、

丁寧にアイロンをかけながら完璧に仕上げる。

この器用貧乏っぷりが、今回の干し柿作りにも遺憾なく発揮されたのだった。

ひとには誰にでも、ひとつくらいいいところがあるというが、

家人にとってのそれは、歳を重ねるたびに実力を発揮して

益々人生をふくよかにさせてくれている気がするがどうだろう。

彼から言わせれば大きなお世話だろうけど。

 

出来上がりはいつごろなのだろう。

義母の完璧な干し柿ではないとしても、

買ってくる干し柿より断然やさしい味わいだろう。

味わいというより、やさしいそのものだとおもう。

 

 

器用貧乏っぷりを見よ。

 

 

 

詩作は後日。

ヤバいヤバいヤバい。

 

仕事納めまで仕事に全集中です。