あれから一年。
忙しい毎日でも忘れているわけではない。
平凡な日常ではあるが、それゆえにかき乱されぬくらいの微風のように
Apple Musicのプレイリストでちいさく流していたり、
音楽を聴く余裕すらないとき、
そんなときこそ胸のやわらかな場所に「秋、多摩川にて」や「東京ライフ」や
「だいじょうぶI'MAll RIGHT」や「MAN」や「カサナルキセキ」が
うっすらと漂う雨のように流れているのだった。
 
今日は横浜アリーナに、KANに馴染みのあるミュージシャンが集まり
KANさんの楽曲を歌う日。
何度も何度もチケット購入のエントリーをしたけれど、かすりもしなかった。
宿まで予約していたのにねえ。
チケットが絶望的だとわかって宿をキャンセルしたら
すぐに仕事が入ったので、まあそういうことなのだろう。
わたしはKANの曲を歌い追悼しているひとたちを聴きたいのではなく、
無論観たいわけではない。
KANさんの歌声を聴きながら一緒に歌いたいだけなのだ。
それに、なんとなく今日のステージにKANさんはいないような気がするのは
どうしてだろう。
いたとしても家族席で家族とご一緒に、まるで人ごとのようにおもしろがって、
ステージが跳ねたあとは、打ち上げでちくっとわるくちを言って
帰ってくるような。
チケットをゲットできなかった僻みとおもわれるかもしれないけれど、
強がりでもなんでもなく、今日のライブが決定してから密かにおもっていたこと。
個人的な見解では、ですが。(「彼女はきっとまた」より)
 
交通費、宿泊、チケット代、何より時間。
浮いた分、KANをおもいだそう。
残してくれた音楽を大切に聴こう。
 
 
詞は詩と違い心が疲れない。
 

冬の虹剥がれるたびに生まれ帰し  漕戸もり