訳あって天気について調べはじめた。
史学を学んだ文系人間のうえ、
物理をすっ飛ばし化学ではいつも赤点すれすれだった身の上。
手始めに子どもでもわかりやすい書物を購入。
なにぶん人生の時間が足りないのでのんびりしていられない。
あれもこれもと手を出せば、
すべてがものにならないことも経験から知っている。
そこでなんとか二択に絞ったけど、そこから先が問題である。
歌集(句集)を出すこと
天気を極めること
ここからひとつを選べないでいる。
どちらも壮大な挑戦になる。
器用なら両方とも軽々とチャレンジしてゆくのだろう。
がしかし、不器用にドがつくほどのド不器用者である。
ドブキヨウを変換したら(ドブ起用)と出た。
ドブ起用のほうがしっくりくるくらいのだめさ加減なのだ。
実は歌集(句集)は、もう少しタイトルを加えたいというおもいがあり
今年は俳句の某賞にエントリーしてみたのだが、結果が出せず。
短歌の賞に至ってはどこにもエントリーすることなく終わってしまった。
これではヤルヤル詐欺と言われても仕方ない。
そこで、いつか制覇しなければとおもいながらくすぶっていた天気学習が、
突如表に出てきたというわけ。
はあ。
コロナ禍で仕事がパタリと止まったとき、
時間しかないあの不穏な日々に速攻でFP2級を取ったこととは違う。
どちらかを選んだとしてもぜんぜん時間が足りない。
そうおもうとコロナ禍は、なんと贅沢なひとときだったか。
横たはる葱につらなる罪あれば薄皮残る秋のまな板
漕戸もり
今日も中部日本歌集を読んでいきましょう。
あのときの白詰草のかんむりを空へと投げて生きて来にけり
三留ひと美 連作 小雪 より引用「第六十八集中部日本歌集」収録
スローモーションで映像が浮かぶような一首。
白詰草の草の匂いがよみがえってくるようで瑞々しく美しい。
つくづくしがみついていなくてよかった。
さっぱりとした生き様(よう)と、白詰草の清潔感が響きあっているようにも感じました。
わたしの「あのとき」はこうだ。
うまくできた白詰草のかんむりを家に持ち帰った。
数日経つとわたしはそのことを忘れ、おそらく白詰草は枯草になり、
父か母が捨てたのだろう、いつの間にやら消えていたのだった。
往生際の悪い子どもだとおもう。
空はわたしをゆるしてくれているだろうか。
