若い、というのはただそれだけでいい。
なんだかわからないけれど、
すべてが跳ね上がっていて、見ていてちっとも飽きない。
生意気なことを言おうが、寡黙に考え込もうが、鼻をほじろうが、
泣こうがわめこうが、本人の無自覚のうちに
泉に水が湧くよう光が次々とあふれてとめどない。
この輝きの季節は、だれにでもある人生の通過点だ。
それから逃げたくて逃げたくてたまらなかったのが、
ホールデン・コールフィールドであり薫くんでありわたしなのだった。
ずっと見ていると、あのときの逃げたさが蘇ってくるけれど、
なんとかかんとか脱けだしてきた身としては、
どこか余裕をかましつつ、酒など飲んでニヤついているのです。
それにしても「若さ」は食欲旺盛。
酒を飲みながら平気で炒飯を次々にオーダーし、
別に、と涼しい顔をしている。
旨そうである。
もちろんわたしも食べたい。
食べたさはあるけれど、食べられない。
大人になるとは同時に古くなることなのだ。
こうなると、若いひとびとが目の前で食べているのを見ることになる。
これがまたたまらない。
しっかり割り勘にも関わらず、
どんどん食べなはれ、という気分になる。
これは母目線だと言うひとがいるかもしれないが、
そこはすこし違う。
わたしは何ものでもない、ましてや母でも姉でも恋人でもない。
ただまなざしとして眩しさに目をほそめている。
手酌の瓶ビールとザーサイで、
じゅうぶんすぎる平和である。
餃子はもうご飯でしょ
暦ではもう冬のまなざしとしてとどくとことごとくひらく空
漕戸もり
今日も中部日本歌集を読んでいきましょう。
沼のごとき孤独といはば平凡にすぎるが沼のごとくにひとり
大辻隆弘連作 秋風裡 より引用「第六十八集中部日本歌集」収録
沼のごときとは、なんと仰々しい比喩なのだろう。
ビジュアルでも想像しやすく、初句から一気に読ませてしまう。
大袈裟に且つ常套句のようにはじまり、そこを抜け出るとおもいきや
そのままそこに居るというとてつもない深さだ。
沼だけに、なにやらねっとりと絡みついてくる印象も深層に拍車をかける。
大辻氏の歌には難解な歌も多いけど、こんなふうに
なにも難しいことは詠んでいないのに、感情が握られてしまう歌も多い。
わたしは彼のそういう歌が好きで、ときどき大辻さんの歌集を出してきては読んでいる。
たとえば、
ノースリーブの腕のひかりの苦しくて好きになつたらあかんと思ひき
大辻隆弘 〜歌集「景徳鎮」より引用
などは、あゝこの人は実際恋をしているのだと確信した一首である。
恋のせつなさは、難しい言い回しや漢字や喩えでは伝わらない。
削ぎ落とされた吐露は、そのまままっすぐ清潔に心に触れてくる。
これは見習いたい作風のひとつ。
この人、とは作者であり主体でありあなたでありわたしであり、
そしてやはり作者なのだという気づかせかたのような。
