生まれた日が人生の起点という考え方もあるが、
万を越すひとびとや企業や個人的な集まりなどの
セレモニーやイベントを間近で見ていると、
起点とはいつでもお取り替え自由な無料サービスみたいなものだとわかる。
 
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
俵万智   〜歌集「サラダ記念日」より引用
 
短歌でいえばこの歌。
サラダ、と検索すると サラダ記念日 が2番目に出てくるほどの有名歌には
歴史的起点がくっきりとみえる。
破調もなくきっちり31字に読み込んでいるので余計に「定まった」感がするのだろう。
あれ以来七月六日は、
カレンダーに書かれてもいいような全日本人の起点となった。
それにしても。
久しぶりに歌集「サラダ記念日」を読み出したら止まらなくなってしまった。
改めて、なんてすごい歌集なのだろう。
と同時に、これを超える歌集は今後出ないだろうと暗澹たるおもいになってしまった。
いやいや、こうやって歴史は塗り替えられてきたのだから
大丈夫か。
起点はいつでも定まるものって、言ったばかりでしょうよ。
 
 
今日が最高の日ではない。ここからが大切。
 
 
読んでびっくりしろ、と源一郎さんも言っている。
 
 

白雲に張り紙をして了はるのが早い蕎麦屋を小春日とする

漕戸もり

 

 
 

今日も中部日本歌集を読んでいきましょう。

 

いいじゃないできないこともわかったし溜め池は川になれはしないし

野村まさこ 連作 踊り場 より引用「第六十八集中部日本歌集」収録

 

連作の冒頭の一首。二首目の 面談 三首目の この二年

という言葉から、子とのことを詠んでいるのだろうと想像してみた。

家族詠として全体を母性としてみると読みやすい。

いいじゃないできないこともわかったし、と畳み掛ける。

こういう言い方をするのは間違いなく父ではなく母だ。

易しいことを言っているようで、

ぴたりと言い当てるところがどうにも憎い。溜め池は澱んでいるものだし、

カワはさんずいの河ではなく三本筋の川なので、瑞々しい印象となって

母性にありがちなちょっとした毒も感じられる。

わたしは、美しく事業家であった母にいつも叱られて育ったので、

ボディブローのようにくらってしまった。

参りました。お母さんごめんなさい、という心境である。

結句、川になれはしないし が惜しい。

説明調に母の優しさがはみ出してしまうのだ。

最後まで、川になれないし と言い切ってしまえば、

お母さんごめんなさいの後、わたしは号泣して母に縋りついただろう。

それでよかったとも言えるし、それではだめだともおもえるのだった。