先日、遂に「極悪女王」を観た。
それにしても。
女子プロレスが熱かった時代のことが思い出せない。
ぼんやりととるに足らない学生生活を送っていたのだろう。
あれだけ人気があったのだから、女子プロレスが好きだった友人も
ひとりふたりどころか大勢いたはずである。
でもそれすらさっぱり記憶から抜け落ちている。
たしかなものとしたら、
嵐のような熱狂を、遠くから眺めている灯台のような心だった。
そのせいかわからないが、あのころからずっとわたしのゆびは冷えている。
酷暑で汗を噴き出す額に押し当てたり、
急に肌寒くなった11月にセルモネータの革手袋でつつんだり、
ちいさな猫と同居しているように、ゆびとわたしは
出かけるのも想うのもポップコーンを食べるのもいつも一緒で、
寂しくなんかないよね、と嘯いている。
不思議とクラッシュギャルズもダンプ松本もブル中野も、
出てくる名前はぜんぶ知っていて、もしかしたらファンだったのか?と
我ながら疑わしい。
灯台の内側を覗いてみるとそこにはヤモリが張りつくばかりだった。
そういう意味では観てよかった。
いちいち痛そうだとしても。
スープから玉蜀黍を吸ふたびに心の猫を濡らしてしまふ
漕戸もり
猫ってだれの心にも棲んでいそうな気がする。
きまぐれに飼い主を苛立たせたりしても、
決して追い出すことはできない。
ふれればあたたかいってわかっているから。
さて歌集を読みましょう。
秋明菊ここぞとばかり咲きだしてわたしは少し苛立ちてゐる
鈴木竹志 連作 不穏 より引用「第六十八集中部日本歌集」収録
秋明菊は可愛い花。
それだけでなく、一途で頑固な面も持ち合わす。
苛立つのはだれのせいだろう。
無邪気な秋明菊には責任はなく、そう感じずにいられないという
理由が七首連作を読めば明らかになって、タイトル通り不穏でしかない。
この一首の魅力は連作に収まらないところ。
わたしはこの歌は一首で読みたい。
相聞歌としても読めるのだ。
そうすると、
なんだか微笑んでしまいそうな、
ごもっともなご意見をありがとう、と言いたくなるような
とても愛しい歌になる。
歌はいろいろな読みかたがあっていい。
そんな一首でした。