いやぁ、いくらなんでも酷すぎないか。
人望ゼロでも客を呼べる男
しかし、
よく考えてみよう。
もし、
人望はあるが客が呼べない男
だったら、どうだろう。
もっと嫌だ。
情けない上にやけた風貌まで想像してしまう。
このような男に惚れることはないだろう。
こんなふうに言われるくらいなら、最初のほうがずっといい。
そう思って最初の酷い方を声に出して読んでみると、
不思議なことに、結構いいんじゃね、とまで思えてくる。
漢でさえあるような、日本でいうところの武士道に通じる潔さまでも読み取れそうだ。
では、
人望はあるし客も呼べる男
だとしたらどうか。
いい。
断然いい。
だけれども、誰かに取られてしまうような不安感がつきまとうのはどうしたことか。
こういう男には絶対惚れる。でも、家族になってはいけないと本能が歯止めをかける。
立浪さんと栗山さんをくらべているわけではないが、誰にでもどこにでも一長一短がある。
ナイフのような言葉でも、一度冷静になって読もう。
すると違った風景が見えてくる。
さて詩歌作へとまいろうか。
(と、うまくいくことはない)
土踏まず血の濃い順に礼をする 漕戸もり
冠婚葬祭。
いつも犬神家の一族を思い出す。
