文学にも賞レースがある。
手垢のついたことばでまとめるなどけしからん、と大家から叱られそうだけど、
俳句や短歌の世界にも、漫才やコントに於けるM1やキングオブコントがある。
両者にある目指す気持ちや大志は変わらない。
受賞すると寝る間も惜しむほど忙しくなり、ドイツ車が買えたり豪邸に住めるということはなさそうだけど、たとえ人々に忘れられようと、灯火のような誇りが消えることはない。
先日、プライベートの船舶に乗せていただいた。
持ち主は一代で会社を成功させたオーナーで、中古の船舶を買い時間をかけて修理したり整えたりしながら
付き合っていると言う。
豪快に知人友人とシャンパンパーティーをするのとは真逆の、船を持っていると集まってくるような人より、なんとなく気まずくなるような人たちのほうがじぶんに近いから、あまり公言していないというのも
彼らしい。
妻や子からも変わっていると呆れられているので、ひとりこつこつと海に通っているのだが、
この時間をくれてありがとうと今は感謝していますと笑う。
この船は、目立たずとても地味であり、だからって聞き分けがいいわけでもなく気ままで、
触れると怒られそうなものはなにも持たない印象で、わたしは勝手に「ミケ」と名づけた。
猫のようだった。
ミケの美しさをいうとしたら、いつもは船腹に眠っている折り畳まれたボートを挙げたい。
多忙な氏との打ち合わせに港へ出掛けた日、ちょうどこのボートが船舶から取り出され点検作業中であった。ついさっき磨かれたようにみえる松脂の光沢を静かに湛えていた。
非常用のボートで、幸い一度も使ったことがないらしいが、とても大切にメンテナンスされているのがひと目でわかる。
こんなところはほんとうはひと様に見せたくないんですけれどね、と彼が言うように、
なんだか見てはいけないものをみてしまった気がしていた。
それは、弱点や欠点というものではなく、これがあるから、のような彼の拠りどころのようで、
でも漫然とそこにあった。
ちいさなオールの細部まで丁寧に触れながら、よし大丈夫、と彼は言って「ミケ」を見て頷いた。
こんなふうに、大切に持ち続けるもののひとつとして受賞という灯火がある。
そんなものあったの、と気づかれないほうがいいような、
でもやっぱりあったほうが遥かに遠くまでいけるような。
まず船ですらないわたしは、コンテストや賞の発表のたび、
海にすら浸かっていないくせに、そこにじぶんがいないことを港から不思議に見ているのだった。
それが港にいるとすごくよくわかる。
なんでだろう。
なんでだろう、なんでだろうね。
ミケに触れた手。
誕生日ケーキの蝋燭をともす借りた火に鳥の影ができる 漕戸もり
船酔いも猫アレルギーもある。
損しているとおもっているうちはだめだ。
←今ココ
