最近、身近な人がデイサービスに通い始めた。

そういう場所があるらしいというのは、知識として知っていた。

この単なる知識が、立体感を持って人生に関わってくるときの緊張感は半端ない。

知っているだけでは済まされない、肉や血や

もっといえば生きてゆくのに必然で、できれば隠しておきたい唾や排便や汗や垢など、

親しいくせに知識をゆうに超えてくる。

更にいうと、知識はときどき邪魔になる。

 

日々を、〜例えば恋愛に於いても〜、合理的に合理的にと生きている。

このような合理的な生き方が通用しないのだ。

合理的にと言いながら慌ただしくしているあいだも、

血肉体液その他の、目を塞ぎたいものは垂れ流れつづいてやまない。

 

合理的の反対語を調べてみると、非合理や感情的などが出てきた。

非合理はともかく、感情的とはほんとうにおっしゃるとおりだ。

入院すると看護師さんが天使(男女問わず)に見えるのと同じく、

「感情的」の炸裂するデイサービスでの、各現場スタッフの働きぶりは、

専門家だから、仕事だから、と言いきれない尊厳が含まれる。

人間は、生まれるときも死ぬときもひとりでは何もできない。

(ひとりで野垂れ死ぬ!と言うあなた。そのあとあなたの亡骸にきっとだれかが祈るでしょう)

祈りも含めて、人間は終末に寄り添われることを、心の内側にきちんと留め置いておかないといけない。

 

 

 

デイサービスの昼食。手づくりで実によく考えられている。

 

長月の入場は顔パスとなり

雑務しかない晩夏からカツ匂ふ

漕戸もり

 

窓ぎはの秋思から目を逸らさずに湯沸かし器から離れて座る

漕戸もり

 

俳句2句は8月の借金として。

お返しします。