自ら狩りをし、とらえた獲物を捌き、煮炊きして食べるのは、想像しただけでエロティックだ。
動物の血肉の生臭さはもちろんのこと、口の生暖かい臭い、皮膚のぬめり、射止めたときに飛び散った糞尿すらもナイフでざくざくと裂き、それらを体全体で浴びているその先には、剥き出しの性でしか説明できないような本質が、だらりと垂れている。
あからさまな本質そのものとして、もし男女が隣り合わせていたら、お互いをむさぼりたくなるのは当然だろう。
ここに理性など、ひと粒のキャンディーほども必要ないのだし。
東出さんの生きかたは、素直で正直で自由で気負いもなく無垢で美しい。
けれど、その独白をYouTubeで垣間見るとき、たとえば動物園の檻のこちらに居て、あちらの一部始終を観察しているような気分になるのは一体なぜだろう。
ああなりたいという願望があるわけでも、区別したいわけでもない。
観察。
わたしはすこし生きすぎてしまったか。
だとしても。
生きているそのものがエロティックだということを、檻のせいにして(こちらにはまるで及ばない)という顔をしながら、実はわたしの乏しい本能みたいなものが立ちあがるのを、ないことにしてはいけない。
檻を取り去れば、平らかでただ同じような表情の本質が並んでいる。
本質が傍観者にはなり得ないのだった。
理想の心をください。
いけにへのまなざしを傷つけてから叶ふあしたに汽笛が混じる
漕戸もり
