原爆の日が、数日おいてまたあることの不気味さ。

一度ではなかった。

これほどまでの強い憎悪を向けられた傷口は、ひらいたまま、日本の夏は79年前からずっと血なまぐさい。

山や海へ出かけたり、親戚の家の縁側で足をぶらぶらさせながら西瓜にかぶりついたり、夏休みの自由研究を父にやってもらったり、花火を見上げたり、浴衣で恋人と縁日を巡ったり、高校野球を観ながらうたた寝をしてみたり…。

夏の記憶のひとつひとつが輝けば輝くほど、その足元から長くて暗い影が伸びているのだった。

ほんとうの夏は、どんな手触りなのだろう。

 

ふと、もう一方で

「清清した」という感触を持ちながら、あの後の夏を生きている、刃を向けたひとたちがいるということを思う。

どちらがどうということではなく、お互いに(ほんとうの夏)を失ってしまって、あれからずっと薄暗い影の先を眺めている。

わたしたちが正しいと言うたびに、その影はすこしずつ伸びてゆく。

 

 

 

潤いを足して終はりにする夏のてのひらを洗ふ陶器のやうに

                       漕戸もり