東郷雄二さんが自身WEBサイト「橄欖追放」に第67回短歌研究新人賞の感想を寄せられていた。
相当お偉い方と、その文体より察しがつく程度の無知識で、失礼極まりないのだが、詩歌の評論では珍しく(というかほとんどみかけない)自身が歌人を兼業されていないという一点で、わたしが大きな信用を寄せている方のひとりだ。
彼の元には多くの歌集が届くのだろう。
ときどき文面から覗く忖度のお気持ちも、逆に信じるにふさわしい遠い遠い玉ねぎのような方だ。
※玉ねぎについて知りたい場合は、遠藤周作「深い河」をご参照ください
第67回短歌研究新人賞。
選考委員も選ばれた歌たちもずいぶんと変わった。
と同時にわたしも変わった。
時代が求めているものも変わったし、個人的には、どういう立ち位置で詠むのかも変わったし、読みかたも変わった。
時代に添わないといけない、と焦るのだろうかと思いきや、自分でも驚くほどに焦るという感覚がない。
彼らの時代を過ぎてきた、という、有名歌人が聞いたら吹き出されてしまうような『自覚』がある。
そして過ぎて尚、その直線上に一緒にいるということを思う。
最新の短歌研究を読んでいないから、東郷さんの挙げてくださった歌より、心に触れた歌を挙げてみる。
彼の死は八年前の冬でありそのあと冬は彼の死である
子どもにはわたしに見せぬ顔がありわたしに見せてしまう顔もある
第67回短歌研究新人賞次席作 津島ひたち「You know」より抜粋
新生児並べるようにタッパーへ夜のしじまへご飯を分ける
いつか痛みを花に喩えて言うときに声まで百合のように裂けつつ
第67回短歌研究新人賞候補作 穴根蛇にひき「雪と雪の鵺」
アナウンス職という足かせが、目新しいというような斬新さより、無音な中に確かさが潜んでいるような歌を選んでしまう。
これはどちらかといえば欠点ともいえるし、単純に個性だと言って逃げることもできる。
無難に、趣味好みとでもしておこう。
それにしても、氏名だけで性別年齢を知る時代ではなくなった。
連作から、作者は男だ女だ学生だ仕事は庭師だなどと(イメージ)、探偵のような選評会じゃないといいなぁと思う。
新しい短歌研究は手元にないので、久しぶりに取り出してきた(第59回短歌研究新人賞発表号)
よそゆきのこゑで遮る大西日 漕戸もり
暑い。
水そのものになりそうなくらい水を飲んでいる。
それでもまだ足りないという。
踏めば終わるようなソルトパンも水と実体の際にあるらしい。
ほとんどは水なのに、わたしたちは水ではなくソルトパンと呼ぶ。
同じような気分でかろうじて人を保っている梅雨の晴れ間。


