今年も折り返し。
何も変わっていないように見えて、少しずつ変わっている。
時間というのは、すぐれた映画監督のようだ。
役者は言われた通り演技をし、撮影の合間に居眠りをしたり、恋をしたり、ジムに行ったりしていると、あれとそれがこうしてこうなって、気がつけばひとつの人生が完成しているというような。
そんなはずではなかったの連続が、すべて関係性を持って響きあうという不条理さ。
役者に主役も脇役もない。
去年の春の、数人で出かけた飲食店で撮った写真を何気なく見ていると、そのうちの一人は亡くなり、一人は入院中だと改めて気がついた。
祝いの席だったから全員笑顔で、なかにはvサインをしているひともいる。
あのとき、こんな寂しい雨の7月を誰が予想していただろう。
知らないというのは愚かなことだ。
愚かだけど、知っていたら?
その解決策をみつけられないままである。
監督は、役者の、或いは海の、道の、本屋の、破れたスケッチブックのすべてを舐めるように撮り続ける。
その先に、せめてひとすじのひかりがあって欲しい。
雨。工事現場は活気付いている。
降りたての雨に汚れて膨らんだ抱くにちやうどの大学ノート
漕戸もり
知識って、あるほうがいいのだろうか、と
時たま思う。
七月だからって、新しいノートではない。
いつものノートの次のページだ。
はじまりはいつもすこし汚れている。
いやだなぁ。
