私(わたしorわたくし)、という一人称について、わたしは相当な偏見を持っていることに気づいた。
今もっぱら東京都知事選が熱いが、性別年齢関係なく候補者が自身のことを「私」というのは全く気にならないし、むしろそうあるほうが自然である。
公というのはそういうものだ。
候補者たちは「私」に戻ればまた別の一人称を持つだろう。
そのときの わたし もしくは わたくし が問題なのだった。
なんだろう。
あれは(正しい)ことなのに、時には人を遠ざけるような声に聞こえるのは。
じゃあ、なんだったらいいのか。
僕 ぼく 俺 おれ ?
ぼく だったらよかったのだろうか。
よかったのならどうして?
それはとあるエッセイの中にあった。
いくつになっても青年のような中年のそのひとは、自身を「私」と呼び、音楽や散文や酒や恋を語るのだった。公と呼ぶにはそぐわない、ひとつひとつにそよ風が吹きこまれるような散文である。
それは、彼自らも認める(いい大人)になってから身につけた慣習なのかもしれないが、もしかしたら、まだ何者でもなり得えない少年のときから「私」という風景だったのだと思わせるような確かさがあった。
憧れであったかのように。
残念なことに、彼の「私」は、滅多なことではだれにも近寄らせないという、砂みたいな異物としてざりざりと音を立てて響く。
わたしは彼に恋をしていたのだろうか。
だからといってどうなのか。
雨の前、空はゆがむ。
宝くじ売り場をこはすユンボより梅雨の私が先に終はりぬ
漕戸もり
円安の影響か万博建設に職人さんが取られてしまっていたのかわからないが、不気味に放置されていた更地が俄かに賑わいはじめた。
ユンボやらブルドーザーやらドリルやらの振動、安全を確かめるための掛け声。
西友跡地。
新しい西友付マンション(マンション付西友?)は2年後に完成予定。
音のある梅雨のはじまり。
