文学の世界だけでなく、あらゆる分野(人生でもいいけれど)には、旬という季節がある。
早咲きでも遅咲きでも、そのタイミングは絶対にある。
歌人や俳人というより『読者』を名乗るほうが気ままでいいと甘えているから、大御所の歌や句について忖度なく、旬だのそうじゃないのだの、我ながら無邪気なものだ。
どうかお許しください。
当然、それだけで食べているプロフェッショナルな歌人や俳人なら、読者以上にそれらを感じとってしまうのだろうが、大いなるちいさな世界の輪を乱さぬよう、墓場まで持っていくような面持ちで、気づかぬふりを決め込んでいるのだろう。それに、詩歌は小説と違い、作家自身が大半の『読者』であるという現象が、表立って酷評をしたりされたりということから逃れやすいということも、作者の旬について論議されない『しあわせ』な要因でもある。きっと、これまでもそうであったようにこれからも、師弟という関係性は壊れないし、そのおかげで長い歴史が一糸乱れぬ様子で続いてゆく。
一方で、自身が作家ではない、または作家になりきれない『読者』は手厳しい。
特に以前一世を風靡したような作者には、あのときの感動をどうしても求めしまうので、よほど作品に力がないと辛口になってしまうのは仕方がない。
辛口ならまだいい。
泣きたくなる。寂しくなる。侘しくなる。
このせつなさを、いったいどこに吐き出せばいいのだろう。
恐ろしさを兼ね備えた『旬』問題。
どんな大御所でも自身の旬がわからないのなら、まだまだ修行中の身にわかるはずがない。
言えるとするならば、遅咲きらしいという一点だ。
この曇りない旬に向けて、ひたすらに、の五月である。
孤独じゃない。
筍に歯双び遺しまだ途中 漕戸もり