暫く映画館で映画を観ていない。

自転車でさくっと行ける名古屋シネマテークが閉館したのも大きいけど、シネマコンプレックスでさえ遠退いている。それには恥ずかしい理由がある。言おうか言わまいか迷うけれど思い切って告白しよう。

2時間席を立たない自信がなくなってきたのだ。お察しのとおり、おトイレ問題です。

飲み物も買わず、喉を涸らしながら観るのは鉄則で、それでもやっと2時間なら大丈夫かどうかというところ。そのうえ最近の映画は平気で2時間を超えてくる。

2時間の壁というやつだ。(わたしが勝手に名づけた)

特に、話題作ほど長編大作のことが多いから、そのような新作映画はプライムでかかることを待って待って待ちくたびれてから観るので、分かちあうという経験に乏しい。数年後にやっと観て感動を話したいと思っても、当時映画を観たひとたちからすればそれはもう『思い出』話である。

 

では、家で観るならいくらでも長くていいか、と言われれば実はそれはそれでまた微妙で、できればですが「もう終わり?もっと観たかった」と惜しみつつエンドロールを眺めるような映画がいい。

作品の途中で立つ、というのは学生時代映画研究会に所属していたプライドが許さない。

というわけで前置きが長くなりましたが、最近アキ・カウリスマキ監督の映画にハマっている。

1時間余りの映画にも関わらず、若い時は退屈で退屈でたまらなかったけれど、今漸く監督の感性に追いついた。生きているあいだに間に合ってよかった。

短いというのはもちろん、会話が極限までに絞られているというのもいい。すごくいい。

言葉を扱う仕事をしていて、お前がそれを言うのかと怒られるかもしれないが、そういう商売だからこそ言葉はこそげとりたいものだ。

察するという美学が日本にはあり、短歌や俳句が現代でも愛されている理由がここにある。

詩歌のことはまあいいとして、ともかくアキ・カウリスマキ監督である。

彼にも長編映画はあるのだけど、何となく途中退席しなくても大丈夫だと思わせるのは、案外言葉の少なさに依るのかもしれない。

 

藤として立てばたれかの日除なり   漕戸もり