仕事の現場で空き時間を過ごす本として、単行本がいただけないのは昨日言った理由なのだけど、たとえば自宅で電話を待っていたり、あと10分で洗濯物が終わるだとか、オーブンで肉が焼けるまでの30分など、自宅に細切れの待ち時間がある場合には、むしろ文庫より単行本のほうがふさわしい。
リビングに開きっぱなしで置いておいてもいいし、栞はその辺にあるコースターやボールペンが使い放題の上、なんといっても文字が大きいので読みやすい。
同じなのは、あくまでも軽く読めるような作品に限るという一点に於いてだけだ。
軽いというのは、文章が稚拙だとか内容が薄いという意味ではまったくない。
けれど、昨日ご紹介したnoteも今日読んでいたエッセイも、偶然とはいえ作家が本職ではない方が書いたものとなった。
これはどういうことだろう。
念のため、傍らに積んである書籍を見てみると、俳優、劇作家、新聞記者、医師…思いのほか多くの職業作家以外の方の作品が混じっている。そういえば森鴎外は医師であったし、又吉直樹は現役のコメディアンである。元〇〇なんていうのも入れたら、最初から作家というのは極少数の恵まれたお方なのだろう。
恵まれた?
羨ましいという気持ちがどうしても滲み出てしまうから、ついこういう言い方になってしまう。
でも逆に、作家以外のお仕事を持つ人が文章を書くことにおいて、恵まれていないという道理にはならないから、恵みという論点からするとそれは間違いなのだろう。
友人の伴侶でDIYが趣味の達人がいる。
どちらかといえば文系の本業にも関わらず、家そのものを建ててしまう勢いで、キッチンから寝室から子供部屋からカーポートまで、ドラマに出てくるような空間に仕上げてゆくのを、友人は頼んでもないのにと言って迷惑そうなのだが、それ以上に冷めているのが友人の建築家の父親で、あれは王道ではないだとか、配管がどうだとか、耐久性がとか、そして最後にはまあ仕事じゃないからせいぜい楽しめ、というようなことを言って余裕な素振りをみせるらしい。
確かにそうだ。それはそれ、これはこれでいい。
ふむ。
もし、俺らプロの作家または建築家が本気を出したらこんなものじゃない、と思っているのでなければ、別によろしいかと存じます。
さくさくっと
飛ぶやうに過ぎゆく春の上空に無数の傷をつけて降る雨 漕戸もり
