私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。
            吉本ばなな「キッチン」より
 
文庫は空き時間にひょいっと呼吸をするように読みたい。
部屋のスペースの問題もあって大抵は一読したら売り払い、また読みたければ古本で買いもどすのだけど、同じ作家の作品でも手放せるものと簡単には手放せないものがある。
我が家のように手前の書棚を左右に動かすと後ろからもう一つ書棚が出てくるタイプの書庫だと、作家別に並べるのもいいが、放さないと決めたものは比較的後ろの棚に保管しておくのがいい。
ということは、手前の棚には売ってしまう可能性がある本が並んでいるということです。
要するに動きがある。だからだろう、部屋のレイアウトは滅多に変えないのに、背表紙の色味や横幅の尺或いは光沢などの影響で、部屋は定期的に趣を替えている印象を受ける。
本にとっても、永遠に古ぼけた書棚を陣取っているより、多くの人に読み継がれたほうがしあわせなのかもしれないのだ。
さて、吉本ばななさんの「キッチン」である。
後ろの書棚の取り出しにくいところを、もう何年も小さく占領している。
こちらはそういう意味でいえば、しあわせとはいえない。
だけど。
寒いのか暑いのかもうよくわからない、そもそも薄手のカーディガンなんて、どのファッションにも合わせようのない春装を勧めてくる天気予報士の信じられなさや、絶えず流れてくる鼻水のせいで基本が悲壮感で満ちている日常や、桜の押し付けがましさや、戦争をしている隣にいて水原一平氏の依存症に誰もが詳しい感じや…、これらの定まらなさがいよいよ沸点に達すると、冒頭のような一文にしがみつきたいと思う春がある。そういう時に、手を奥の奥までぐんと伸ばして漸く届く一冊は、そのたびにまるで光みたいに思えるのだ。
 
 
やさしい、深い

 
 
冒頭の一文もいいけれど、結びの一節も暗記している。
 
夢のキッチン。
私はいくつもいくつもそれをもつだろう。心の中で。あるいは実際に。あるいは旅先で。ひとりで、大ぜいで、ふたりきりで、私の生きるすべての場所で、きっとたくさんもつだろう。
                     吉本ばなな「キッチン」より
 
 

今しがたリラの途切れて吸ふひかり  漕戸もり