今さらだけど、岡田斗司夫さんの分析力はすごい。

たまたま下に挙げたのは、鳥山明先生についての解説だけど(消されていたら各自ご検索ください)、東京ディズニーランドの闇を理詰めで深掘りしてゆく回などは、アミューズメントパークの根源が、岡田さんの解説以前と以後で変わってしまうくらい影響力があって、まるで神だった。

題材がなんであれ、論破してしまう洞察力もさることながら、言葉の紡ぎかたや表情、間の取り方や息のつきかた等、岡田斗司夫プロジェクトチームが存在していてもなんら驚かないし、セルフプロデュースと言われてももはや「神」なのだから、意義を唱える理由などひとかけらもない。

 

過去の回の切り抜きだとしても、新しい。

 

 

詠むだけでなく、又、読むだけでなく、評があってはじめて文学として成り立つような短歌である。

優れた評を聞くことで、詠んだ歌(自作)を好きになったり、素通りしていたのに手放せなくなった歌集も一冊や二冊どころではない。

短歌界隈にも、すぐれた評者はいる。

いるのだけど、短歌文学の悲劇は、評者はいつでも作家であり読者でもあるということだ。

それらは本来なら、分断されていないと純度が落ちる類のものだ。

※鳥山明先生を語る回において付け加えると、岡田斗司夫さんがアニメ制作現場にいたらしいことも、アニメファンということも語られる。でも今や彼は、アニメのみならず、あらゆることがらに一言を述べる「評論家」である

小説家のみが小説を読みそれを評する(解説や栞を頼まれたり等の諸事情がある場合は別として)世界だったらと想像してみて欲しい。そこに「小説」はないような気がしないか。

 

もし短歌界隈に、岡田斗司夫的かいぶつが存在していたら、今わたしの見ている風景はどうなっていたのだろう。

そんなことを生真面目に考える週末。

 

 

ポケットの安全ピンに春の闇   漕戸 もり