気づいたら居た短歌ユニットtoitoitoi (スペル合ってる?)。

在りかたから、発信の仕方から、戦略に至るまで、つかみどころがないので、三人がひとりひとりでいても、無論三人でいても、妖精かそれとも座敷童子の類いのように、存在感があるようでなく、ないようであるみたいな不可思議なユニットである。

 

春のしばらく、名古屋のPARCOで、隠れtoitoitoi短歌 をさがせ?が楽しめるらしい。

館内のあんなところこんなところに、彼らの短歌がレイアウトされているのを想像すると、それだけで楽しくなる。

彼ら、というより、短歌だ。

短歌が、短歌を親しむひと以外に見ていただけるというパフォーマンスが夢のようである。

と同時に、PARCOの希望集客層も透けてみえる(爆)

toitoitoi がPARCOなら、わたしの歌はどこに似合うのだろう。

 

あそこだ。

今もうあるかどうか…。

古い古いジャズ喫茶。ジャズと言っても生で聴けるわけではない。

すこぶる地味なマスターが選ぶレコードを否応なしに聴きながら、暗闇で文庫本を開く左翼が集まるような小汚い店。今池にあった。

わたしの歌はあの店なら、なんとか生き延びるのかもしれないと思うのだった。

客はいちように皆無口で、左翼で、文庫本を開いていて、そもそもジャズすら聴いているかどうか怪しい。

そんな彼らだからこそ、たとえば

 

 

蜂蜜と蜜蜂ほどのたしかさにあなたのあとの湯に浸かる夜

漕戸 もり

 

 

が足もとに落ちていて、

なんだこれ、と一円玉を拾うよう、ポケットに入れて持ち帰ることに賭けてみるのも悪くない。

 

あの店の、煙草の脂でじっとりとしていた机と椅子は、今思うと歌を詠むのによく似合う。PARCOとtoitoitoiのことを考えていたら、随分みずぼらしい話になってしまった。

みずぼらしいともいえるし、夢のような寓話でもある。