旧Twitter(現X)をひとすじの川のように眺めていると、実にいろいろ流れてくる。

もう二度と自然に還らない塵のような感情、沈みかかったやるせなさや、押しつけがましい狂喜や絶望など、うっかり掬うと手が濡れるので、注意深くしていないといけない。

川の水は、澄んでいればいいに越したことはないけれど、どちらかといえば流れかたが重要だ。

たゆたうのを愛しむにはまだ人生が足りない。激流に対抗する心の腕力も衰えかけている。かといって、春の小川のようなのどかさを望めば、すぐに飽きてしまう。

当然ながら、Xの川に適切な流れなどない。

けれどごく稀に、見惚れてしまう流れかたに出会うことがある。

 

作家白石一文さんの小説『快挙』のひとかけらが、花びらを丁寧にこぼしたみたいに、川に流されてきた。

確か10年ほど前、白石さんの『翼』という作品が、同じようにTwitterに流れてきたのを思いだす。わたしは手が濡れるのもお構いなしに、その(花びら)をせっせと掬いあげては抱きしめ、また川に戻してゆくのだった。手を濡らし、すこし風邪をひき、せつないといういう感情を知り、かなしみにふかく喜びにあさく揺れるようになったのを、最近やっとありがとうと思えるようになったところだ。

 

『快挙』?

 

まだらな記憶から、

ごそごそと書棚の奥を探ってみた。

 

デジャヴでもなんでもない

 
 
鉄筆文庫で復刻版の準備をされているらしい。
※詳しくは各自お確かめを
 
つけ加えると、川を眺めるのがすきだ。
奇跡みたいなたしかさで、ふさわしい速度をたもち、手にちょうど合う花びらが流れてくる。
うっかりと掬うのが花びらだとしても、すこし風邪をひくのだろう。
小説のひとかけらは、目をうるませて読むのにちょうどいい。
それくらいの、やさしい風邪をひくのだろう。
 

むらさきの背表紙をうしろから抱く二月は欲しいと願つてもいい

漕戸 もり