引き続き、空き時間があると大江健三郎を読んでいる。
もののたとえはどうであれ、伝えたいことは一貫して変わらないのが大江文学。
エログロ流血反吐復讐裏切り情けなさ死にたさ…底辺のあらゆることを乗り越えてこないと、俺の真意を教えるわけにはいかない、と宣言されているような(もののたとえ) に試されながら、大江の哲学に触れてゆく。
何度も何度もさわる。
さわって、愚かな最たるものの(わたし)をじっとみつめる。
名前や具体的な罪よりも先に、黒縁メガネで愛想のよさそうな青年の顔写真は、わたしたちの生活の片隅に何年も何年もじっとりと貼りついて、もしかしたら世代を超えて知られている、最も有名な黒縁メガネの青年だったのかもしれない。
メガネの青年は、指名手配犯のポスターの、いちばん目立つところで笑っていた。
偽名を使って数十年を密やかに生き、病を患い、最期は本名で迎えたいと病院で話したことが、ネットニュースから流れてきたと思ったら、今朝亡くなったという。
過激派、反日、武装戦線、手製の時限爆弾。
小説でも読んでいるかのような物々しい言葉に、生臭い(ほんものの)死がそこにあったことを、つい忘れてしまいそうだ。
笑顔のメガネ男子は、枯木のようになって尚、島国をざわっとさせて去っていった。
桐島聡、という名前で。
ちょうど、セブンティーンを再読していたところだった。
セブンティーン
罪は償うものだけど、その償いをひとりで負うのに、人というのはあまりにも脆弱にできている。
誰しもはじまりはセブンティーンだ、と思えば思うほど他人事とは思いにくい。
冥福を祈っていいかもわからない。
わたしたちもセブンティーンだったのだ。
近眼の青年が逝く一月の画鋲で刺した日々を見てゐる
漕戸 もり
