人の推しというのは、つくづく当てにならない。
文芸や芸術など文化に関わることはもちろん、食や人物、場所など、それが大多数の支持を得ていたとしても、万人が賛同するとは限らないものだ。
 
推されて再訪した某人気?中華料理店。

 
再訪と言ったのは、年末に一度訪れているからだ。
美容家の知人から、ここのお店はどのお料理もはずさない。特に水餃子と黒担々麺は絶品なので是非食べてみて欲しい、と言われていたので、満を持して家人と出かけてみた。
ところが、年末のせいか小さな店内は満員ということもあり、注文したものがちっとも出てこない。
隣の席に先に来ていた若い母と小学生くらいの男の子が、わたしたち以上に料理を待っていて、ときどき「お腹すいた」と、子どもがぽそとつぶやくのもせつない。
キッチンには料理人がひとりで鍋を振っている。狭い店内をアルバイトらしき女性3名が慌ただしく動いている。
破綻しているというのは、こういう日のことだ。
年末。来ない中華料理。隣席の飢えた子ども。食事後の下げられない食器類。
そのうえ、ハズレはないと聞き期待値をあげて予約して来ている。
料理は50分を過ぎて漸く運ばれてきて、わたしたちも隣の母子も静かに食事を始めたけれど、わたしたちはうまくいかなかった。
年末の忙しさでささくれだっていた家人は、店の選択を攻め、知人を攻め、店を攻め、わざわざ不味そうに目の前の食事をさっさと済ませると、わたしが食べるのを待つだけとなった。
小さく言い争い、わたしは泣き、隣席の子どもまでに心配されて、わたしたちは別々に帰ったのだった。
 
新年が明け、2度目の今日は家人が勝手に予約してきた。
家人なりに思うところはあったのだろう。それに、きっとどんな味だったかもさっぱりわからなかったのだと思う。
 
それでまた、新年明けて間もないからという言い訳が、相応しいかどうかもはやわからないけれど、注文したものは来ないし、なんと今度は始末の悪いことに、店のミスでテーブルは予約されておらず、席が空くまで、入口が開くたび冷たい風が吹き込んでくるテーブルで、食事を始めることになったのだ。
料理の味は、もうわからない。
ただ、いちばん大切なことが欠けているものを、少なくともわたしは推すことはできないし、家人や知人との微妙な溝は開いたままなのである。
 
 
おはつたらずたずたに踏む焚火かな   漕戸 もり