思うところがあって、ごそごそ引っ張ってきた大江健三郎短編集。
今日から、激務日以外一日一遍ずつ再読していく。
短編集なら、なんとか山も登りきれるだろう(か?)という算段。
元日からの震災や訃報や、まだまだつづいている戦争などに、立ち止まることが多すぎて、既に置いてけぼりの感がある2024年。
ただおいていかれるのではなく、おいていかれるなりに考えたとき、大江文学しか頼るところはないのではと思い当たったのだ。
 
冒頭から、痺れる。

 
それにしても文春砲。
これはあくまで私見なのだけど、松本さんは、該当女性などは眼中になく、信頼していたブレーンの謀反者と対峙しようとしているのではないだろうか。
該当女性(個人的には被害者とは言い難い)は、首根を掴まれて密室に入ったわけではない。ましてや監禁されたのでも、猿ぐつわをはめられたわけでもない。結果的に自身の興味や優越感が勝り、自身の足で密室に出掛けたという選択は、未成年でない以上言い方は厳しいけれど、庇っていただけることではない。それが大人の流儀というものだ。既婚者である松本さんはその一点では罪といえるけれど、それが一期一会のことであれ、男女の仲において、そこに未成年や暴力などが存在しなければ、ともに平らかであるべきだと思う。
そんなことは、当事者がいちばんよくわかっていることだろう。
だと信じれば、松本さんが今いちばん心を痛めているのは、暴露系週刊誌にネタを売った仲間のことだ。
 
大いなる地方都市なりにも、エンタメの端くれにいたから、当時はお笑い芸人よりも、俄然影響力を持っていた大手広告代理店やスポーツ選手や放送関連の重鎮に、積極的に取り入っていたひとたちが、少なくない数でいたのを見てきた。所詮狭い地方都市の業界なので、そういうひとに取り入っているうちに、純粋に仕事っぷりに惹かれ好きになって結婚した例もたくさんあった。
男が強い女が弱い、或いは、男が悪い女が正しい、と言って許されるなら、女は強かでときにずる賢い。
女は女でいながらそんなことを知るから、男同士みたいに同志にはなかなかなれないのかもしれない。
 

何千年ひろがりつづけた森が死ぬプリウスが過ぎたのに気づかず

漕戸 もり