ひと玉を8分の1くらいにカットしただけの白菜に、キムチタレがかかっているのと、キッチンバサミが運ばれてきた。
お〜。
歓声が湧きあがる。
ざくざくざくざく…。
悪いことをしました。※個人の感想です
肉を食べに来たのに、そしてお肉は美味しかったのに、印象に残ったのはこの白菜。
エンタメぶりも味も素晴らしい。
なんならこれとビールだけで十分なくらい。
やや塩辛いと思わないでもないけれど、コクと甘みととろみのあるタレは、酒も白米もどんどん進むやばいやつ。
是非一度家で作ってみよう。
ところで。
先日、短歌は批評文学と述べたけれど、なんだかおどろおどろしいXの投稿が流れていた。
登場人物
歌人A氏…歌集著者歌人。
歌人B氏…A氏の親しい歌人。
歌人C氏…A氏の歌集を総評した歌人。
あらすじ
歌人Aが歌人Cによる自歌集評に対しての違和感を吐露→歌人Cが歌人Aへ説明→既に歌人Aは歌人Cを拒否(ブロック)のため説明が届かず→歌人Cは歌人Bへ説明→歌人Bより歌人Cへ説明への反論…
激しい。
歌は(をはじめとする文学は)作家の思惑から外れても外れなくても、たくさんの人に多様な価値観で読まれて揉まれて、やがていい風合いになって、世界に馴染んでゆくのではなかったか。
歌人A氏の歌集は機会があれば読もうとおもっていたけれど、震え上がってしまってそんな気持ちはふっ飛んでしまった。
だからといって歌人C氏の評が良いと誉めているのではない。
そもそも評について良いも悪いもない。
ただそこにあるのは、歌人C氏はそのように読みましたよ、という事実だけだ。
その事実って、とても大切だとおもうのだけどどうだろう。
穢されているような気がするのか、作家と作家でもある読者の間にはときどきこのような軋轢が生まれる。
この物語の登場人物に、歌人ではなく純粋なる読者氏がひとりでも紛れていたらよかったのに。
読者。たとえば昨日ブログにも出演したわたしの断酒友人のような。
そうならば歌は悠々と、可能性として生き続ける。
今日も中部日本歌集を読む。
作者から放たれた歌はわたしのなかで熟成し、作者にとって予想外もしくは想定内の場所に着地する。
それらを、ゆらゆらと風に吹かれながら俯瞰しているのが、歌(文学)であると信じたい。
人生の水きり石を投げて今三度目までのはねだしを見る
田中徹尾 第六十七集 中部日本歌集より〜
水辺にだれかが放った水きり石が弾むのを「すごいすごい」と眺めるのが好きだ。
自分で何度も試みたけれど、うまくいったためしがないから、いつの間にやらなくなった。
それからずっと、はねだしに憧れている。
わたしは見てばかりいたから、実際投げる人よりうまくいく方法に詳しい(詳しいからって、実践して成功するわけではない)とおもう。はねだしに力はいらない。むしろ、いかに力を抜くかがうまくいくコツである。そのように投げる人生の水きり石とは、どんなかたちでどんな重さで色なのだろう。少なくともここでは、ぽてっと水に吸い込まれる石ではない。投げている主体の力の抜き加減もちょうどよく、水辺の気配もあってかみずみずしい。
三度目というのは人生のどのあたりなのだろう。
達人が水きり石を投げると、七、八、九、十…と跳ねあがる。
現在から未来への流れを、風景に変えて印象を残した歌となった。
手のなかの水きり石に奪はれた熱を手放す明日のみづに
漕戸 もり

