売り切れていたKANさんの本。
あれ以来(あれ、というのはあれです。レアなあれです。心が折れたさよならの日)Amazonを検索するたびがっくりしていたけれど、奇跡的に再販の一瞬に巡り合って購入。
※今はまた売り切れです
 
KANさんのメロディーは言うまでもなく優れているけれど、詞が楽々それを越えてくる。
詞というより詩という漢字を当てたほうがいいくらい、言葉の使いかたがポエムだ。
そのポエムに、作者自身が解説を付けてまとめたのがこの本。
短歌や俳句は、作者がいちいち解釈をたれるなんて邪道、詠んだあとは読み手が優位となって、いかようにでも感じてください、というような批評文学ともいえるけれど、実はわたしは、読み手の蘊蓄なんかどうでもよくって、作者の(歌を詠んだときの心情)を知りたいといつもいつも思っている。どういうわけかわからないけれど、これはひどく下品なことらしい。(と歌人の大家が話しているのを聞いたことがある)
作者本人が参加している歌集の批評会ですら、作者が自作を詠んだときの心情を語ることは滅多にない。
集められた批評家たちが、この歌はこうだ、いやああだ、この詠みは浅い又は深い、内容が意味不明などと、こきおろしたり絶賛したりするのを、凪のようにしんとして聞き入っているだけである。
雅がなんだ、下品がなんだ。
もちろん、批評家たちのおかげでその歌の魅力を再発見することも多い。批評文学なのだから当然です。
とはいえ、作者はそのときどんなことを感じ、なにを表現したかったのかを知っておきたいのが、読み手というものなのではないか。更にファンであれば言わずもがな。
 
あの歌詞を書いた状況。そのときの心境。具体的にどこに住んでなにを食べて、恋をしていたり楽しかったり辛かったり…。わたしの鑑賞とはまたひとあじ違う作者の情景は、作品の味変スパイスになる。
 
きむらの和歌詞
 
たとえばある曲の解説に…
 
〜現在のちょうど半分、まだ30直前の歌詞ですが、最後の2行の考え方は今も変わっていません。
               きむらの和歌詞 より一部抜粋
 
と書かれているのを読むと、パズルの最後の一片がぴたりとはまるような感触がして、やっとわたしの鑑賞が完結する。
大切に大切に読もう。
 
贅沢

 
歌集や俳句で慣れている価格。
内容がぎっしり詰まっているから迷わず買える。
歌集や句集は買うとき相当迷います(汗)

 
 
蘊蓄なんかどうでもいい、と啖呵を切りましたが(笑)、蘊蓄は作家として必要な鍛錬のひとつだというのも詩歌文学の特徴なので、どうぞご勘弁を。
 
第六十七集中部日本歌集、読みます。
 
こゑとして過ぎてしまつた人の死が左脳の端に消えがたくある
                 早智 まゆ季  第六十七集中部日本歌集より〜
 
声だけ知っているという人がいる。
たとえば取引先の放送局の営業部署の女性だとか、アップルのトラブルで対応していただいたカスタマーセンターのodoさん(実名)とか、予約の電話をしたら満席だと言う店員さんだとか、数々の途轍もない声がわたしの生活に関わっているのだと思うと感慨深い。
会ったことはないけれど声と容姿は知っているという人を含めたら、それはもう数などで表せない人生のお約束みたいなものだ。
短歌をはじめて間もない頃、与謝野晶子の声を録音した素材を聴いたことがある。
あれには驚いた。うっかり、怖いと感じたのだ。
もちろん録音技術が未発達なことも影響していると思うけれど、今でも思い出すと背筋がぞくぞくするくらい腹の底から湧いてくるような太い、それでいて軽やかな声は、言語を司る左脳から消え去ることはない。既に晶子はこの世にはいないというのがこれを増強している、というか、それだから消えないのだろう。
 
最近はKANさんの歌を聴くことを避けている。左脳の端どころか中央をどっかりと占領し、それがなんだか重くなってきたのだ。左脳の端くらいにちらちらと思い出すくらいがいい。声ならまだしも、死それ自体を引き受ける余地は左脳にはほとんどない。この歌にある(左脳にちらつく死)とは、どんなものなのだろう。悲しいとか辛いとか言っていない、ただ消え難いということが、すべてを網羅してしんみりする。
作者のこの人とは一体誰なのだろう。遠い人近しい人俳優さん画家…などと、また邪道なことを考えてしまうのだった。
 
左脳にはひらくとまはる陶製のバレリーナをり紅はみだして
            漕戸 もり
 
左脳はオルゴールの印象がある。
わたしのオルゴールもずいぶん年季が入ってきました。