春にオープンしたシュークリーム店。
お値段もスタイルも上から目線。
セットで購入しないと食べられない味がある。要するにそれ単体では買えないということ。
そういうコンセプトでの商売らしい。
店舗が入れ替わりの激しい場所なので既にお店の存続が心配だけど、もしかしたら数ヶ月単位の出店と最初から見切っているのかもしれない。
肝心の味はというと、あくまでもわたしは、と注釈付きで言えば好みではなかった。
そのお値段なら〇〇の方がいい、という〇〇に当てはまる代替品がありすぎる。
もうこの時点でだめだろう。
このお値段ならもうすこしわがままを言ってもいいでしょう、と思わせてはいけない。
強気なら強気の領分がある。
許さない、とジャッジされたら去るしかないのだ。
立派な箱と紙袋
第六十七集中部日本歌集を読む。
記憶せり孔雀の檻に父母と羽根の開くを待ちてゐしこと
鈴木竹志 第六十七集中部日本歌集より〜
孔雀の話というタイトルの連作7首のうちの1首。
後半3首は東山動物園での幼い記憶が綴られる。
東山動物園かどうか忘れたが、わたしにも孔雀の記憶がある。
確かそこには孔雀の他にもいろいろな種類の鳥がいたのを、ほの暗い回廊のようなところから眺めるという具合だった。あれはどこの動物園だったのだろう。じっとみているとやがて孔雀はふわぁという音のような風のような速度を保ち、七色の羽根を毳立たせぶるっぶるっとゆする。
わたしは言うのだ。
あれは雄なのよ。
雌に振り向いて欲しいからあんなに羽根を広げてアピールしているの。
そしてなんだかすごく生々しいと思いながら、見てはいけないものを見るように羽根をゆすり続ける孔雀を凝視していたのだった。
この歌にある父母の息を詰めて待つ感じは、傍らの彼らの子である主体をふくめてどこか艶かしく感じるのは、孔雀の羽根が開くのを求愛だとわたしが知っているからだろう。両親ではなく父母と記すことで、孔雀の雄雌やつがいという関係性までもそのような意味をふくませているようにみえる。このときの幼子は、もちろん求愛など知る由もなく、自身こそが愛そのものでしかない。そうして突き詰めてゆくと、孔雀というのは単なる比喩で、綿密な企みが暗示されているのかもしれないと考えるのも味わい深い。
あのときわたしは誰と孔雀を観ていたのだろう。
友だちか恋人か。
少なくとも父母ではない。それが良いか悪いかはさておき、誰だったかを忘れてしまったことがひたすらわたしを落ち込ませ、あれからずっと愛について考えているような人生を送っているのだった。
選ぶのはわたしでわたしの真顔が孔雀の虹に照らされてゐる
漕戸 もり
雌が雄を選ぶの。
あのときのわたしはこんなことも言った。
言ってからどうして悲しくなったのだろう。
未だにわからないままでいる。

